「私」は、ただ「反応」しているだけ。

アラフォー独身女子(彼女はいます)。「人生これでいいのか?」と思いながらも、「毎日楽しく暮らす」のが1番の望み。

宝塚の男役は、「気障」のプロフェッショナル

 

昨日、はじめて宝塚版の「エリザベート」を観た。

 

東宝版の「エリザベート」のDVDは、繰り返し観ている。

 

総合的には東宝版の方がクオリティーが高いということは、心づもりした上で行った。

東宝はオケを含めて出演者全員の表現力がしっかりしていて安定感があるけど、

宝塚は出演者の力にバラつきがあり、上手な人がいる一方で心配な人もいる。

(ゾフィー役の人が上手だったので専科の人かと思っていたら、組長だった。)

 

 演出はどちらも小池修一郎だけど、東宝版は「エリザベート」という作品自体を優先するのに対して、宝塚版はトップスターや劇団生を優先させるので、作品の本質がわかりにくくなるというか、別物になってしまったりする。

 

東宝版の1幕のラスト、エリザベートが扇子で顔を隠して終わるところが、エリザベートの凛とした心が表れていて、何より絵的に美しく、何度見ても痺れるのだけど、宝塚版では、エリザベートはなにやら薄い幕の後ろに隠れてしまって、トートが前面に出て幕となる。

 

そして、どこをとっても魅力あふれるこの作品の中で、あえて1番心に響くところを挙げるなら、それはラストのエリザベートの歌詞で↓

 

 泣いた 笑った 挫け 求めた 虚しい戦い 敗れた日もある

 それでも私は 生命委ねる 私だけに

 

 (東宝版『エリザベート』より引用)

    

 

 

最後まで生き抜いたエリザベートが微笑ながら歌うところが最も心打たれるが、

それが宝塚版にはない。

 

トートと幸せそうに旅立っていくのも悪くはないけれど、

生きる力のようなものは、東宝版を観たときの方が湧いてくる。

 

 

しかし。

そんなことは宝塚ファンの方々にとっては織り込み済みなわけで、

出演者たちの成長を見守るのも楽しみの1つなのだし、何より宝塚にしかない魅力というものがあるのだから、どっちがどうなどということは、どうでもいいことなのだ。

 

宝塚版のエリザを観るにあたって、宝塚の熱烈なファンというわけでもなかった私は、宝塚版に東宝版を超えるものを正直なところ期待していなかったのだけど、今私は宝塚版「エリザベート」のDVDが欲しいと思うに至っている・・・。

 

宝塚版にしかない魅力、それは気障(笑)

男役は気障のプロフェッショナルだということがよくわかった。

 

東宝版の城田優なんて美形中の美形で申し分なく格好いいし、宝塚版のエリザを昔から観ていた彼女が言うには宝塚っぽいという井上芳雄の繊細な身のこなしも十分素敵だけど、宝塚の男役と比べればなんとナチュラルなことかと思ってしまう。

 

宝塚男役は、ゴリゴリに気障。

 

政治の話をしていたり、はたまた特に何もしていないときでも、いちいちキメキメで色気出しまくりなので、素敵♡ってなってしまう。

男役全員そんな感じなので、ずっとニヤニヤがとまらない。

 

フランツのことはこれまでマザコン男としてしか見ていなくて、100%エリザの味方だったのに、美弥るりか演じるフランツに対しては、エリザに冷たくされて可哀そう・・・とか思ってしまう。

 

 

完璧に気障をやりきるってなかなかできることじゃないと思う。

そもそも気障に特化して努力するってあまりないことだと思う。

 

気障を演じるにはナルシシズムが欠かせない気がするけど、世の中には「あなた美人だって気づいてますか?」と言いたくなるような美人らしくない立ち居振る舞いの方がいたり、自覚はしているのだろうけど好感度を意識するのかどうしても気さくな感じになってしまう美人が少なくない中、自分が美しいこと、自分の魅力がわかっている人が自覚的にする美しい所作はとても貴重だ。

 

それをこれでもかと供給してくれる、それが宝塚。

 

宝塚版でないと満たされない「エリザベート」は確実にある。