「私」は、ただ「反応」しているだけ。

アラフォー独身女子(彼女はいます)。「人生これでいいのか?」と思いながらも、「毎日楽しく暮らす」のが1番の望み。

「1年以上使っていないものは捨てる」のは、おかしいと思う。

 

 

だいぶ間が空いてしましました・・・。

 

部屋の内装が完成したものの、気に入らないところをやり直してもらったり、家具を運び入れたり、どこに何を置くか悩んだり、色の合わないものは塗装したりetc。

「あと少し、あと少し」とつぶやきながら、コツコツと作業しておりました。

 

完成まで、あと少しです・・・。

 

 

そんな状況の中、何度も思ったことがあります。

 

それは、「捨てなくて良かった!」ということ。

 

 

断捨離やシンプル生活といえば、よく聞くフレーズが、

「1年以上使っていないものは、捨てなさい」

 

 

今回のリフォームに際して、何年も捨てずにとっておいたものが大活躍しているので、

1年という短い期間に大きな疑問を持ちました。

 

 

まずは、母の判断で処分せずにとっておいたもの。

・ミシン台(コンソールの代用として使います。)
・茶箪笥
・小ぶりの棚2つ

 

母の実家の整理をしなくてはならなかったときに持ってきたものですが、

それから3年以上は経っています。

一応使ってはいましたが、なくても全く困らなかったものです。

 

大きな家具なので、これらがなかったら、一体いくら出費が増えていたのかと恐ろしい・・・。

 

 

私がマンションのトランクルームに押し込んでおいたものも、思いがけず日の目をみることになりました。

 

・折り畳み式ちゃぶ台(アパート時代から5年以上の時を経て、空いた和室で利用されることになりました。なんとこのちゃぶ台、私が大学生活をはじめるにあたって買ったもので、実家に戻ってからも使い、アパートへの引っ越しでも使い。マンションに引っ越すにあたって来客が多かった時のためにトランクルームにおいておいたものの、交友関係の狭さゆえパーティーは開かれずそのままだったものです)

 

・大きなクッション(これもアパート時代から5年以上のときを経て)

 

・電子ピアノ+台(文鳥のスペース確保のために、より省スペース仕様の電子ピアノに買い替えたため、トランクルームで復活の予定なきまま3年は経っていたもの)

 

・中学校で作った椅子(これは仕事場でずっと使っていたので、一見ブランクはなさそうですが、中学から大学卒業までの7年くらいの時を経てから大活躍。何度も釘を打ちなおし18年間使ってきたけど、今回のリフォームでついにお払い箱かと思いきや、新しい部屋に似合うように塗りなおしたら予想外に良い存在感で、これからは座るためではなく、主に飾りとして活躍する予定)

 

・アイアンのバスケット(こちらもマンションに引っ越してから使ったり使わなかったりで、使わなくなってから1年以上は経っている。このたび新しい仕事場のトイレに居場所がみつかりました)

 

・しっかりした箱やバスケット(頂きものが入っていたのを何かの際にととっておいて、ちょっとした収納の際に利用。1年以上は余裕で経っている)

 

 

番外編として、今年の冬に上から水を入れられるタイプの加湿器を買った際、ネットで買ったものの気に入らなくて1度も使わなかったデカンタが、水差しとして大活躍しております。

デカンタとしては武骨だったけれど、水差しとしてはOK。

いずれ花瓶として使うかもと思ってとっておいたものが、予想外のところで日の目をみることに。

このデカンタも購入から3年以上は経っています。

 

 

1年どころじゃないほどの時を経て大活躍する物たち。

 

私は整理整頓大好きなので、けっこう物を捨てるのにも躊躇がない方ですし、定期的に持ち物をチェックするのは身についているのですが、判断の基準は、「1年以上使っていないもの」なんていう乱暴なものではないなと、しみじみと感じています。

 

 

あくまで私個人の人生においてですが、環境が大きく変わるのは、だいたい3年~5年に1度という気がしています。

 

いつだってず~っとこのままの生活が続くような気がしているのに、振り返ってみると、なんだかんだ変化が訪れているのです。

 

1年を振り返ったくらいでわかることって、少ないのではないでしょうか。

そして、この先を見通すこともやっぱり難しいのではないかと思います。

 

 

私は27歳くらいのときに、むしょうに昔持っていたキキララの小引き出しが欲しくなったことがありました。

 

幸い、小学生の頃の私がいらないからと祖母にあげたものがまだ祖母宅にあるのを見つけ、「それ私のだったよね」と言うと快く譲ってくれ(とんでもない孫ですが・・・)、しばらくは自分の部屋に飾っていたのですが、またいらないと思ってしまい・・・、でもさすがにまた祖母にあげるわけにもいかずしまっていたのが、なんと10年の時を経て、またキキララの小引き出し好き!と思って、今の部屋に飾っております。

 

10年前も今も、ユーズドでも2,3千円はしているので、捨てなくて良かった!とまたしても思うのでした。

 

 

何を処分して、何を残しておくかというのは、本当に難しいことです。

 

物にはもう拘らない、なんでもいい!と思いきってしまう方法もあるのでしょうが、

私はそれってなんてつまらないんだろうと思ってしまうようなタイプの人間なので、

一喜一憂しながら物と関わっていきたいなと思っています。

 

程度というものはありますけど、所有できる力があるのなら、無理に捨てなくてもいいのではないのかなと思います。

 

 

物事は単純にとらえた方が楽ですし、人は楽を好むものですが、単純なことって思考停止につながって危険だと思いますので、面倒でもちゃんと自分の頭で考えてやっていかなければならないなと思う次第です。

 

 

車の買い替え ~新車or中古~

 

 

ここ最近、なにとはなしにストレスフルでした。

 

原因は、出費がかさむからではと思っております。

加えて収入が低いことも、急にはじまったことではないけれど、心に暗い影を落としているようです。

 

そういえば、うつ病患者にお金を支給すると症状が軽くなったという研究があったような。

わかる気がします。

私はその逆バージョンだけど・・・。

 

車を買い替えないといけないのですが、

仕事場のリフォーム代が、予算を20万ほどオーバーしまして。

 

そもそもリフォームは予定外のことで、トータル170万かかるにも関わらず、特に積み立てとかしていなかったので、その分は貯金を取り崩さないといけなくなってしまったのですが、せめて少しでも支出を減らせたらと新車ではなく中古を検討してみました。

 

新車の予定を中古に変更して、出費を抑えようかと考えたのですが・・・。

 

ちなみに、今の車には15年乗っていて、メンテナンスも雑で、もうボロッボロの車なので買い替えないという選択肢はありません。

総走行距離は16万キロくらい。

 

2年前の時点ですでにボロボロだったけど、耐えられないほどみっともなかったサイドミラーの塗装の剥げだけを直しての今回です。

 

バンパーは前も後ろもズレがちで(応急処置だけしてもらっている状態)、車検となれば修理しないわけにいかないので、買い替えるならどうしても今なのです。

 

中古でも10年は乗れるものにしたいし、新車なら13年は乗る。

 

新車が170万だとして、中古で120万かかったとして(探してもらったら理想の条件では見つからなかったけど)、その差額は50万円。

 

3年の差で、50万円の差。

 

私は月1万円を車買い替えのために積み立てるので、年12万×3年で36万円。

(年12万×15年なら、今180万円溜まっているはずなのですが、高級オルゴールを買ってしまったので、170万円の予算です・・・)

 

でも、新車の価格の中には、車検代が含まれているので、それも考慮しないといけません(細かいことは抜きにしてざっくり計算)。

月5千円×12ヶ月×3年で18万円。

 

36万+18万=54万円。

 

中古120万+3年分の価値54万円=174万円

 

中古だろうが新車だろうが、13年間での支出は、支払いが早いか遅いかが違うだけで、トータル的にはそう変わらないという結果に。

 

それなら、条件を細かく取捨選択できる新車を買った方がいいだろうという考えに至り、結局節約にはつながらず・・・。

 

そして、まだ車選びは終わっておらず・・・。

気が重いです・・・。

 

 

続・食べたいものを食べたいときに食べたいだけ食べたい ~痩せたいと悩む方々へ~

 

前回から間が空いてしまい申し訳ありません。
今回の記事を待っていてくださった方、いないんじゃないかなぁ?と悲しいことを考えながらも、引っ張った手前、恐縮しきりです。

 


さて、本題ですが。
いかにして、有り余る食欲を抑え、食べ過ぎで増えた体重を5㎏ほど落としたのかという話です。

 

 

痩せたいという思いでダイエット関連の本を読む中で、いくつか心に響くものがありました。

ダイエットをやめようと思わせてくれ、結果的に痩せることができました。

(それらの本をご紹介できればいいのですが、タイトルも著者名も何もかも忘れてしまいました・・・。本当に申し訳ありません。)

 


最も私心に響き、納得させたのが、キットカットの話でした。

 

キットカットは、皆さまご存知かと思いますが、チョコのお菓子です。

毎日、キットカット1枚分のカロリーを余分にとると、1年で10㎏太る計算になるけれど、1年で10㎏も体重が増える人なんてそうそういない。
身体は自然に、食べ過ぎたら次の食事では食欲が落ちるようにして、繊細に体重をコントロールしている。

そんな話でした。


当時の私は、カロリーを非常に気にして計算ばかりしていましたが、結果今より5kgは太っていました。

人為的にコントロールしようとしていたために、自然に備わっている能力が発揮できない状態になってしまっていたのだと思います。

苦労した分報われればいいのですが、失敗しているという・・・。

身体に任せておけば、特に努力しなくても緻密に計算してくれるものを・・・。


この考え方は、非常に説得力があり、自分の至らぬ頭とひ弱な精神力で体重をコントロールしようなんてとっても難しいことで、失敗する確率の方が高くって、何にもしない方がマシなのだということがわかったのでした。

 


他には、医師の方が書いた本で、痩せて悩んでいる人に、どうなっても責任はとれないけれど、ダイエットをしたら太れますよとアドバイスして、実際にこれまで太れなくて悩んでいた方が、食欲がとまらない状態になってしまったという話も忘れられません。
それまで食に感心が薄くて毎日献立を決めるのが難しいくらいだった人が、何でもかんでも美味しそうに見えるようになったということでした。


変に食事を制限してしまうと、身体の反発がすごいのでしょうね。


糖質抜きなんて無茶苦茶なのでは?と思ってしまいます。
不自然なことはやめておくに限ります。

 


また、こんな本も響きました。

それを書いた方はとても太っていて、長年太っていることを悩んでいたけれど、あるとき、その悩みは2つに分けられることに気づいたそうです。
それは、「太っている」ことと、「太っていることを悩んでいること」だと。
太っていることはどうにもできないかもしれないけれど、太っていることを悩んでいることはやめることができるのではないかと思ったと。


確かに、ダイエットのことを考えている時間とエネルギーは相当なものだと思います。

その方は、ダイエットを気にせずに、本当に食べたい物を食べるようにしたそうです。
そしたら、脂っこいものばかり食べていると、さっぱりした野菜などが食べたくなるようになり、それまで食べたいとは思わなかった低カロリーのものも自然と食べたくなるようになったのだそうです。


昔、関根勤が、ポテトチップスを食べるときは、途中でやめられなくなるから、あらかじめ奥さんに途中でとめてくれるよう頼むというエピソードに共感しまくりでしたが、今は、ポテトチップスを食べてもいい加減のところで美味しくなく感じるようになりました。


本当に味わって食べると、美味しいと美味しくないの境目がわかるようになります。

そもそもポテトチップスをしょっちゅう食べたいと思わなくなりました。冷蔵庫に食べかけのポテトチップスがず~っと残っていたりします(冷蔵庫に入れるとしけらなくていいですよ)。

 

あと、ポテトチップスは異様に腹持ちがよく、次の食事までにお腹が空かなくて面倒なので食べないようになったというのもあります。

 


ダイエットをしていると、食べたいけど我慢するということ以外に、今そんなに食べたくないけど食べるということがあります。


〇時以降は食べちゃだめだから今のうちに食べておこうとか。
時間を空けて食べるより、食事といっしょにデザートも食べた方が吸収されにくいから、食後すぐに食べようとか。


今後食べないようにするから、今食べておかないとと思うと食べ過ぎてしまいます。

後で食べた方が美味しいから今はやめておくとか、楽しみは後にとっておこうと思うと、結局食べないということもよくあります。


食べないようにと思っているときほど、これが最後だと思い、食べる機会が増えてしまいます。

 


食欲旺盛なときは、食事の量を減らす=我慢だと思っていましたが、ただお腹が空くまで待って食べる、満足したらやめるだけなので、辛いことは一切ありません。

お腹が空いてから食べた方が美味しいですし。

 

また、しっかりと空腹を感じてから食べた方が、適量で満足すると感じました。

よく、飢餓状態になって、食べ過ぎてしまうとか、カロリーが吸収されやすいとか言われていますが、私の場合は、あまりお腹が空いていないときの方が、どこで止めていいのかよくわからず、惰性で食べつづけてしまう気がします。


例えカロリーが吸収されやすくて、実際に脂肪として蓄えられたとしても、お腹が空いてから食べることにしていれば、余分にとったカロリー分だけお腹が空くまでに時間がかかるというだけで、我慢して空腹に耐える必要はありません。

欲求のままに食べたり食べなかったりするだけです。

 

 

今付き合っている彼女と出会った頃、私はまだカロリーを気にしていました。

彼女は痩せていて、食べたいものを食べたいときに食べていました。

ガツガツ食べていたかと思うと、急にお腹いっぱいになってピタリと箸が止まります。

その様子に影響されました。

 

彼女にカロリーオフ商品をすすめたら、カロリーオフは不味いからと言って選ばなかったこともすごく印象に残っています。

当時の私は迷わずカロリーオフのマヨネーズを選んでいましたが、今では赤いキャップのスタンダードなタイプを選んでいます。

確かに、美味しいです。

そして、そのせいで太るとかはもちろんありません。
適量以上食べると気持ち悪くなってきますから。


カロリー0の寒天ゼリーも買わなくなりました。
美味しい美味しくない以前に、カロリーがないなんて食べてもすぐにお腹が空いてしまうので、この役立たずが!という気持ちにさえなるようになりました(笑)

 


そうそう、太っている人に、「どうして食事をするのですか?」と質問すると、「美味しいから」だとか、「自分へのご褒美」だとか答えるけれと、痩せている人は、「お腹が空くから」と答えると読んだことがあります。

本当にその通りでした(私は別にすごく痩せているというわけではないのですが)。
「お腹が空く」から食事をする。
これを守っていれば、不必要に太ったりしません。


ただただ、お腹が空いたら、そのときに食べたい物を食べる。
余計なことを気にして、食べたくないものを食べると、たとえ満腹になったとしても満足できなくて、結果食べ過ぎてしまいます。


お腹が空いたら、食べたいものを食べる。

とても単純で簡単なことです。

ダイエットしたいけれど抑えきれない食欲に困っている方には、本当におすすめです。

 


もしお腹がいっぱいになっても食べたいのだとしたら、ストレスがあるのではないかと思います。
しかし、ストレスをなくすことは難しいにしても、それを生きるために必須の「食事」で解消しようとすることはリスクが高いのではないでしょうか。

ゲームしたり、寝たりした方がマシというか。

食事以外のことで何とかしたいですよね。

 

食べる元気があるのなら、他でストレス発散するエネルギーは十分あると思います。

たぶん、ダイエットの悩みを2つに分けた方が書いたのではなかったかと思いますが、有り余る食欲があるということは有り余るエネルギーがあるということなのだ、という言葉も印象に残っています。

自分って元気なんだと思ったとき、なんだか嬉しくなったことを覚えています。

 

あれもこれも食べたいと思い、時にわざわざ買いに出かけて(今ではそんな面倒なことをしてまで食べたいとは思わなくなりました)、大量に食べて(今ではそんな元気はありません)。

あの頃、元気だったな!と懐かしくさえあります。

 

 

最後に。

身も蓋もないことを言ってしまえば、体重なんて自分しか気にしていないものです。

友人知人の体重なんて正直どうでもいいです。

太っていようが痩せていようが、好感度に変化はありません。

ということは、太っていようが痩せていようが自分の価値はそんなに変わらないということです。

 

体重をどうにかするより、姿勢を良くした方がよっぽど印象に影響があると思います。

おまけとして、姿勢を保つ筋肉は大きくカロリーも消費しますので代謝も上がって良いことづくめです。

 

そうやって自分を励ましながら、さいしょは恐る恐る食べたいものを食べたい時に食べたいだけ食べてみることにしたのでした。

 

結果、いわゆる普通体形です。

 

私のこの経験がどなたかのお役に立つことができたなら、とても嬉しいです。

長文をお読みくださり、ありがとうございました。

 

 

 

食べたいものを食べたいときに食べたいだけ食べたい ~痩せたいと悩む方々へ~

 

 

いつもは、いったい誰に向けて、何のために書いているのかはっきりしないまま、その時々に言いたいことを気ままに書いているこのブログですが、
今回は、痩せたいと悩む方に向けて、私の体験を役立ててもらえたらという思いで書かせていただきます。


ただし、病気などでホルモンバランスが崩れて太ってしまう方や、遺伝的に太りやすい方、健康を損なうほど痩せたい・モデル体型になりたい方、鍛えて引き締めたい方などには、参考になるようなお話はできません。


食欲が抑えられない、食べすぎてしまう。
そのせいで健康上ベストな体重よりも太ってしまう。
そんな悩みを持っている方に向けて書かせていただきます。


昔は食べたいものを我慢したり、食べすぎてしまうことが多かった私ですが、現在40歳で、お腹が空いていても食べたいものが何もないということがわりとあるくらいに、食欲に悩まされることがなくなりました。
食欲があったらあったで、食べたものを食べたいだけ食べても適量の範囲内ですませることができています。

 

食欲の悩みから解放されたのは、年をとったせいもあるのかななんて思っていましたが、70歳になる母の友人がいまだにダイエットのことで悩んでいたり、80歳になる方でさえ、家にいたら食べすぎてしまうから外に出かけるようにしていると話していたりして、必ずしも時が解決してくれるものでもないのだと知り、何十年も体系のことを気にして生きるのって大変なことだよなと思うのでした。
※お2人とも、健康体重より重いと思われる方です。


そしてあらためて、私が過度な食欲から解放されたのは、考え方を変えたのが大きかったのかなと思ったのでした。

 

私に効果があったからといって、全員に有効ということもないとは思いますが、私は特別な人間でもなんでもありませんので、同じように効果がある方がけっこういらっしゃるのではないか、少しでもダイエットの悩みから解放される方が増えてくださればと、自分の体験や考えを述べさせていただきます。

 

 

私は30歳になるくらいまで、程度の差こそあれ常に痩せたいと思っていました。


私は身長153cmで、最も体重が減った時が、45kgを少し切るくらい、最も体重が増えたときが、53kgか54kgくらいだったと思います。


身長が低い分、1kgの差は大きいです。
スタイルは骨格などによっても変わってくるので、あくまで私の場合はですが、
50kgを超えると、背中に肉がついてきます。

45kgだと、お腹がぺたんこになります。

でも、45kgのときだって、もっと痩せたいと思っていました。

 


今の私の体重は、46kgです。

とはいえ、年1回の健康診断の際にしか体重を量らないので、2018年7月の、それも、服を着たまま量って服の重さを適当に差し引かれての数字なのですが。


体重計を処分し、日常まったく体重を量らなくなって、10年は経ちました。

そして、食べたいものを食べたいときに食べたいだけ食べて10年。

 

 

1年に1度の体重測定の推移です↓


平成21年:48kg(BMI:20.6)
平成22年:47kg(BMI:20.2)
平成23年:45.5kg(BMI:19.5)
平成24年:47kg(BMI:20.2)
平成25年:48kg(BMI:20.7)
平成26年:48kg(BMI:20.6)
平成27年:48kg(BMI:20.6)
平成28年:47kg(BMI:20.1)
平成29年:47.5kg(BMI:20.4)
平成30年:46kg(BMI:19.7)

 


最高と最低の差が、2.5kg。
1年にたった1回しか量らないので、1年の中でもそのくらいの増減はあるのではないかと思っています。


なんとなく太ってきたなとか、痩せてきたなとか、見た目でなんとなくわかります。
常に同じ体重をキープしている感じではありません。


私の友人に、毎日体重を量って、何十年も同じ体重をキープしているという人がいますが、それは健康にいいのか?と少々疑問です。
季節や体調などに合わせて体重が変化するのが自然だと思うのですが、それを無理矢理一定に保つことはどうなんだろうかと思います。
素人考えではありますが。

 


ダイエットのことが頭から離れなかった頃、私は食べたいのに食べなかったり、食べたくないのに食べたりしていました。

何を食べるのかということもですし、いつ食べるのかということについてもです。


さまざまなダイエット情報に影響されてきました。


食パンを6枚切りから8枚切りに変えるとか。
毎日湯船に浸かって、カロリーを消費するとか。

 

今は厚切りだろうと薄切りだろうと、気分で選びます。
湯船には冷え性対策のために浸かります。


ダイエット向けのお菓子を作る料理番組では、プレーンなクッキーよりも、ゴマ入りクッキーの方が舌がゴマの粒を感じて満足感があるとおすすめされていました。


シンプルなバタークッキーを食べたいときに、ゴマなんか入っていたら満足できません。ゴマに邪魔されずに味わいたいです。


チョコ1かけらと、きゅうり数十本分のカロリーが同じだから、きゅうりを食べましょうと書いてあるダイエット本もありました。

チョコが食べたいときに、きゅうりを大量に食べても満足なんかできません。


それでも、私はそれらの情報に影響されて、カロリーを非常に気にするようになりました。

ある本では、カロリーの不明なものは食べない方がいいとさえ言われていました。


カレーは高カロリーだということで、おかわりしたくても我慢していましたし、たくさん食べてしまったときは、嫌な気持ちになりました。

そういえば、私の高校時代の友人は、夕食でてんぷらを食べすぎてしまったとき、いてもたってもいられず近所を走ったと言っていました。

モデルでもなければ、アスリートでもなんでもないのですが。


家にどんな食料があるのか把握していて、食べたいけれど我慢するということが当たり前でした。反動で大量に食べることもしょっちゅうでした。

お菓子を半分くらい食べて、「もうお腹いっぱいで食べられない」と残す母が信じられませんでした。

今は、私もそういうことがあります。


酒井順子が、過食気味だった頃、冷蔵庫にあるケーキが気になって気になってしょうがなくて、ダメだと思いながらも食べてしまい、とんでもないことをしてしまったと思ったと書いてあるエッセイを読んで、ものすごく共感しました。

 

阿川佐和子が、起きたらすぐに水も飲まずに執筆にとりかかり、しばらくして喉が渇いたと思ってそれからやっと水分や食事をとると言っていて、感覚が全くわかりませんでした。

 

今は私も、起床後ついつい水分も食事もとらないまま過ごしてしまいます。
健康のために、水分はすぐに取らなければと思ってはいるのですが。
そして、私は仕事をするわけではなく、ただネットなどを見ているだけなのですが。

 

 


痩せたいという悩みから、いかにして解放されたのか。

 

ダイエットをやめた。


ただそれだけのことでした。

 

 

あっという間というわけではありませんでしたが、考え方の方向性を定めたときから、少しずつ50kgを超えていた体重が減ってきて、ある程度のところで落ち着きました。

 

なんの努力もしていません。

その体重を維持するために苦労もしていません。

 

 

ダイエットをやめることと、痩せたいと思うことをやめるのは少し違います。
痩せたいという気持ちは、簡単になくせるものではないかなと思います。

 

ダイエットをやめたら、それなりに痩せられそうだ。

でも理想どおりというわけではない。

 

ダイエットをやめようと思えるまでに、痩せたいという気持ちと折り合いをつけるまでに、いろいろありました。

 


そのことを、次回に書かせていただこうと思います。
(引っ張ってしまって申し訳ありません。構成も何もなく思いつくままに書いていますので、本題前が思いのほか長くなってしまって、息切れしてきてしまいました・・・。)

 

 

 

ただただ、ダラダラしてしまう・・・。

 

 

ブログを書くペースが徐々に落ちている。

特に何ががあったというわけではない。

なんとなく延び延びになっているだけ。

 

じゃあこれまで快調に書いてきていたかというと、そんなことは全くなく。

 

次は何を書こうかと考え、テーマが思い浮かび、ちょっとイメージしてみたりなんかして、でも時間が経つと別のことが書きたくなり、それを何回も繰り返すこともあり、結局、もうそろそろいい加減書こうかというタイミングのときに書きたいことを書く。

というのを繰り返してきた。

 

ブログを書く時間帯とか、どのくらいのペースで書くかという目標も特に決めていないので、ずっと書かなくてもいいかもと思ってしまったり、でもこうやって書いていると、毎日だって書けそうな気がしたり。けど無理。そんな感じ。

 

 

規則正しく時間を有効に使える人と、そうでない人がいて、まあその中間もいるのだろうけど、私は規則正しくに憧れながら、かなりの時間を湯水のように無駄に使ってしまうタイプ。

 

規則正しいのが結局は楽なんだってわかっているけど、それは頭だけでわかっているのであって、行動が変わらないってことは、腹からわかってはいないということで。

 

明日書けばいいか、の連続。

 

 

そういえば、昔付き合っていた人と喧嘩のようになったときに、私からちょっと距離を置きたいと言ったことがあった。電話で。

 

そのときは数日くらいのつもりで言ったのに、「連絡するのは明日にしよう」が続いた結果、2,3ヶ月経ってしまったことがあった。正確な期間は忘れてしまったけど、1ヶ月ではなかったと思う。

 

病的な感性を持っていて、今思えばモラハラ的な要素も多分にある人だったから、毎日自由を噛みしめていたというのはあるのだけど。それにしても我ながらちょっと酷い。でも、向こうも連絡してこなかったのだから何か意地でもあったのか。私は自由を満喫していただけなのだけど。

 

その人とは、その後しばらくして正式に別れたけれど、「のい子(私)のような人間は社会で上手くやっていけないだろうから自分が支えてあげてもいいよ」的なメールを送ってきたので、丁重にお断りしたという思い出。

 

 

何かというと、「明日にしよう」と思ってしまう。

休みの日に、「次の休みの日にやろう」と思ってしまう。

 

それなのに、やりはじめると途中で止めたくなくて、取り憑かれたようにやり続けるということもよくある。

 

無為に過ごす時間の合間に訪れる集中タイムを細々と積み重ねることによって、なんとかかんとかやってこれている。

 

コンスタントに頑張り続けたいけれど、それがとてつもなく難しい。

規則正しい人、すごいよ。ほんとうに。

 

 

あと、朝型も難しい。

 

昔は睡眠の本もいろいろ読んでみた。

今はもう諦めて流れに任せてるけど。

 

 

「 ベッドから離れること」

 

 「脳では「考えてから行動に移す」ではなく、「やってみてから考える」ことが重要」

 

 「脳は脳から出力することで情報処理の仕組みをつくる、つまり脳の学習は出力依存型である」

 

 

何の本だったかはもうわからないけれど、大学時代に書き写した文章。

 

非常に感心したのだけど、やはり起き上がるのがとても難しいのであって・・・、アドバイスを活かせぬまま40歳になってしまった。

脳の仕組みについては、起きてさえいれば余裕で活かせる知識なのだろうけど、それがきちんと活かされていればダラダラすることもないのだろうから、やっぱりほとんど私の身にはなっていない知識なのだ。

 

 

最近では、生まれながらに朝方の人と夜型の人がいるという説が出てきたそうで、非常に救われる思いをしている。

夜型の人が無理に朝早く起きると、鬱っぽくなることもあるという。

 

学校なども、年齢が上がれば上がるほど、遅い時間から開始した方が学習効率が良いという研究結果もあるとのこと。

 

夜型の人は、背徳感を抱えつつも、深夜の、ときには夜通し起きていて白々と空が明るくなるころの、他人の気配の消えた静けさを味わう心地よさを捨てられないのではないかとも思うしね。

夜型の人にしか生み出せないものもあるだろう。

 

などと自分を励ましつつ・・・。

そんなこんなで、時間を上手く扱えない。

常に上手く扱いたいと願っているにもかかわらず。

願っているだけでなく、ルーティンを決めてみるなど工夫をしているにもかかわらず。

続かないよね・・・。

 

 

いや~~~~、なんの解決策も方向性もない、ただの嘆きを書き連ねただけなのですが。

 

時間の有効活用ができなくて自己嫌悪に陥りがちな方には、自分だけじゃない、やっぱり難しいよね、と少し気が楽になっていただければ。

そして、規則正しい生活ができている人には、自分には特別な才能があるのだと自己肯定感を高めていただければ幸いです。

 

 

 

シンプル系の流行に乗れずに苦労する。

 

 

リフォーム中につき、1日の大半をインテリアのことを考えたり、検索したりに費やしている。

そして、考えに考え、調べに調べた結果、私の望むものはどうやら手に入らなさそうだということがわかったりする・・・。


フォーカルポイントにフロアスタンドをシンメトリーに飾りたかったけれど、私が欲しかったのは、傘がないタイプで、できればアッパーで、アンティークテイストのもの。

ほとんどが、傘があるし、アッパータイプは特徴のないシンプルなデザインが主流だし、アンティーク系になった途端いっきにシャンデリアやキャンドルになってしまう。
たまにいいなと思うデザインがあっても本物のアンティークで、5万とか10万とかして、とてもじゃないけど2本は買えないし、そもそも同じものが2本売っていない。


仕方がないので、今はリーススタンドにスワッグ(吊るす花束?)を飾ろうかと考えはじめているけど、これまた選べる種類がかなり少ない。でも、フロアランプよりは希望がありそうだ。

 

インテリア選びをしながらずっと感じてはいたけど、照明専門店に行ったときに、はっきりと世の中の流行りは、「シンプル」「モダン」「北欧」であることを思い知った。

1万点から選べるというのに、私が気に入るものが1つもなく、そもそも方向性が違いすぎて、ネットで探すしかないと思った。


1度はアンティークショップには行ってみようかとも思うけど、どうもシャビー感の強いお店が多そうな感じ。

 

 

世の中の主流に乗れないということは、とても不便なこと。

私はもともと主流に乗れないタイプではあるけれど、メジャーが嫌いということでは全くない。


フィギュアスケートを好きになった当初(伊藤みどり時代)は、こんなにもメディアで取り上げてもらえる日が来るだなんて思いもしなかった。
BSで、佐野稔が選手の分析などを語る番組を観たときに、なんて楽しいんだろう!野球好きの人なんかは毎日こんなに楽しいのかと思ったものだった。

自分の趣味がメジャーなのに越したことはない。

 

 

シンプル系の人気が絶大すぎて、趣味が合わない人にとっては、不遇の時代。

シンプル系って、そんなに目指すべきものかなぁ???????と言いたくなってしまう。
嫉妬でしょうか・・・。

 

子どもには物が少ない部屋よりも、ゴチャゴチャした部屋の方が刺激を受けて脳には良いらしいけど、大人もそうなのではないのかな。

シンプル系って、突き詰めていくと、悟りを開く系になっていくような気がしていて。
そして私は、悟りを開いたら終わりだという考えで・・・。
欲望あってこそ生きているのが楽しいのであって・・・。


部屋を引き払ったことのある人ならわかるのではないかと思うけど、一切の荷物を出した後の部屋が狭く感じられるあの感覚。

物がなくなって広いと感じるかと思ったら、こんな狭っ苦しいところに住んでいたのかと驚く不思議。

物があるおかげで、奥行きを感じることができるのだ。

 

 

インテリアを完成させるためのポイントがいろいろある。

ソファ&テーブルがあること。
フォーカルポイントがあること。
飾り(置物・花など)があること。
壁が飾られていること(絵・鏡・壁紙の色や模様など)
ランプがあること。

ソファー&テーブル以外は、なくても大丈夫なもの、実用性のないもので、だから、「飾り」なわけなのだけど。

不要なものや気に入らないものは、どんどん処分したらいいと思うけど、「飾り」はいると思うなーーーーーー。

なくても大丈夫だけど、あるとやっぱり違う。

 


バロック音楽は、装飾音符がたくさんつくけど、装飾音符がなくても違和感なく聴くことができる。
ピアノ用の楽譜だと装飾音符はそれなりについている程度で、楽器の機能にも助けられてそれで充分成り立っているけど、チェンバロバージョンだと、ぎゅうぎゅうに装飾音符が付いている感じで、それがやっぱりとっても良い。

飾ってナンボなのでは?と思う。

 

 

シンプル系のブログはよりどりみどりで、いろんな意見がすぐに読めるけど、自分好みのインテリアは名称すらどう検索してよいかわからないということもあって、なかなか有益な情報が見つからなかったけれど、やっと1つ2つ見つけた中に、日本で販売されているランプは、首が細くて小さいものばかりで困るという意見があって、目から鱗だった。

あらためてランプの大きさ形状に注目してみたら、海外のインテリアに使われるランプが大型のものが本当に多いことに驚いた。

飾ることへの気合が違う。


あと、家具を買うことへの気合も全然違うということを、今回の検索につぐ検索で知った。

オーダーして8週間くらいは待たされるらしい。
その間をイケアで凌いだりするらしい。

階級が違うと言ってしまえばそれまでだけど・・・。

 


今、日本は全体的にやっぱり不景気なのかもしれない。

シンプル系で高級路線は、ものすごくお金がかかりそうだけど、シンプル系を愛する人は、高見えになんて拘ってない人が多そうだし、そもそも物欲に支配されたくないとかそういう感じなのかなと勝手に想像してるけれど。
それって本当に自然に発生した欲求というよりも、社会の流れに適応しようとしている表れなのではないかと思ったりする。

 

北欧系の高級路線はすごく高そうだけど、低価格でも全然楽しめそうだし、アジアン系は本格派を求めても手が届きそうな感じがする。

一方、クラシック系となると、手に入りやすい価格帯は姫系になってしまうし、かといって本格派になると、とてもじゃないけど手が出ない価格に跳ね上がる。ちょうどいいところがない。


そもそもが分不相応なのかもと思うけど、メジャーな趣味になれば中間価格帯の充実が期待できる。
もっと、メジャーになってほしい。
あと、「柄物良品」とかできてほしい。


切実に、主流派になりたい!

 

 

カーテンにお金をかけるか否か。

 

 

何に価値を見出すかは人それぞれだけれども、「カーテン」は人によって、かなり意見が分かれるのではないかと思う今日この頃。

 

仕事場が広くなるにあたって、床・壁紙・ドアなどなどを選びまくっている中で、カーテンも3種類選んだ。

 

カーテンとはいえ、ふつうのカーテンは1種類で、あとの2つは、ロールスクリーンとバルーンシェード。

 

1番大きな掃き出し窓2か所は、ロールスクリーンを選んで、お値段8万円弱。
腰高窓2ヵ所は、バルーンシェードで、13万円強。
間仕切りカーテンは、2ヵ所で、8万円強。

〆て、約30万円(全て、レール代込み)。

 

1番大きな窓が8万円で済むのに、人1人が通れるくらいの間仕切りスペース分のカーテンも同じくらいかかって、おまけにほんの少しだけど高い。
腰高窓は他2つに比べて5万も高い。

 

ロールスクリーンはレース生地1枚、バルーンシェードもレース生地1枚、間仕切りカーテンは普通の生地。

 


今住んでいるマンションに引っ越したときに購入したカーテンは、掃き出し窓1ヵ所と、腰高窓1ヵ所で、それぞれ普通の生地とレースで、計10万円(レール代はもとからついていたので含まず)。
せっかくアパートからマンションへ引っ越すのだからと、オーダーメイドで作った(東京インテリアだけど。今回は、シンコールとサンゲツ)。

 

アパート時代は、袋詰めで売られているカーテンだったと思う。
ヒダの出方なんて気にもしていなかった。

 

カーテンなんて誰も見ていないよとか、来客がある部屋だけちゃんとして後は安物でいいとかいう意見をよくあるけれど、引っ越して5年は経った今でも、良いカーテンを買ってよかった、光沢が素晴らしいとか思いながらけっこう眺めている。

 

友人知人の少ない私、彼女が来る以外は、数年に1度誰か来るか来ないかという感じなので、誰に自慢できるわけではないけれど、自己満足は非常にできている。


自分はインテリアなんてなんでもいいよと言える自由さに憧れがありながらも、私はどうしたって素敵な部屋にしたいと思ってしまうタイプらしい。

 

今回、あらためて自分の部屋のカーテンのヒダの出方についても注目してみたけれど、ちゃんと作ってもらったカーテンのヒダはやはり美しい。
無造作が格好いいみたいなインテリアにするのならいいけれど、今回は仕事場ということもあって、ヒダはとっても重要。

 

 

そして、カーテンだけでもお高い!と驚いているのに、断熱だなんだとカーテンに機能を求めると、重いカーテンになってしまったり、レースの軽やかさが失われたりするという問題があって、内窓を付けることにしたので、そのお値段が60万円くらいしてしまう。

 

窓のために90万・・・。

 

窓め!!

 

 

まあ、内窓にすればカーテンよりは断熱してくれるだろうし、カーテンのせいで部屋が重苦しくなるということもないわけだから、内窓の価値はまた別問題かと思うものの・・・。

 

先日、「ウインドウトリートメント」という言葉を知ったばかりだけど、そういう考え方でもしないと、とてもじゃないけど納得できない。

 

そういえば、マンションのときは、遮光カーテンをやめて、窓自体にUVカット処理をして、それに8万円かかった。

でも、やってよかったと思ってはいる。後悔は全くしていない。

高くてもそれに見合う価値を感じられれば問題はないのだけれど、仕上がり状態がイマイチわかっていないから、こんなにもモヤっとするのだろう。


過去、高かったけど価値があったと思うものの1つが、20万くらいかけた膝下と脇の脱毛。
昔だったということと、病院でだったのとで、一般的な値段より高いのかなと思うけれど、病院だとパワーの強い機械が使えるらしく、3回通っただけで終わったので、それも良かった。価値があったと思っている。

 

もちろん、こんなに高いものを買わなくても良かったと思ったものもある。
7万円の革のブーツと、8万円の眼鏡。

 

どちらも見た目は素晴らしいけれど、革のブーツは水に弱いのと、ロングブーツを履く気合があまりなくて出番がとても少ない(それにしてもブーツなのに水に弱いって一体なんなのだろうか・・・)。眼鏡は部屋で毎日かけると思っていたけど、鼻の付け根が痛くなるので、コンタクトをしたくない程度の外出時に使うことしかしていない。非常にもったいない。

 

簡単にお洒落度を上げられるアイテムではあるので、捨てたいとかは全くないものの、頻繁に使うのならいいけど、たまに使うには私には分不相応なので、高かったのに!!という思いがずっとある。

 

そして、値段で妥協して選んだせいで結局後悔するという、安物買いの銭失いの経験も多々ある。

あー、本当に難しい。

 


カーテンは、ベッドやソファと違って、自分で作ろうと思ったら作れる感じがしないでもないし、実際に作ってしまう人もいるし、服を作るよりは簡単そうだし、みたいな気がどうしてもしてしまうからか、カーテンの値段に驚く人は珍しくないみたい。

実際、ぼったくっているのでは?と思ってしまう。

 

 

そのころタヒチの黒真珠は販路がまったくなく、需要もほとんどなかったが、ブルイエは、いっしょに事業をはじめようとアセールを説得した。(中略)そして、それを持って旧友である伝説の宝石商、ハリー・ウィンストンを訪ねた。ウィンストンは、ニューヨークの五番街にある店舗のショーウィンドウに黒真珠を飾って、法外に高い値段をつけることを承知した。(中略)
ほんの少し前まで、ポリネシアの海中でロープに連なったクロチョウガイがひっそり育てていた真珠が、あっというまに、ニューヨークでも指折りの裕福なセレブたちのすらりとした首にさげられて、マンハッタンを闊歩するようになった。

 

(『予想どおりに不合理』(ダン・アリエリー著 / 早川書房)
「第2章 需要と供給の誤謬 なぜ真珠の値段は━そしてあらゆるものの値段は━定まっていないのか」より引用)

 

 


カーテンにお金をかけるべきか否か、ネット上にはさまざまな意見があり、まさに賛否両論なのだけど、どうやら私はカーテンにお金をかけるべきだという意見を探してしまっている・・・。

 

ネット社会の恐ろしさよ・・・。

 

世の中、多数派の意見や謎の空気によって、さまざまなことが明確にも曖昧にも決められてしまっても、ネット上では、本当に自由に意見が述べられていて、少数派の立場のときには勇気づけられて非常にありがたいのだけれど。

 

判断材料としてネットを利用するのは、とても難しい。

 

自分の頭でちゃんと考えるしかないという、至極あたりまえの結論。

 


カーテンは絶対無地が良いとか、無地なんてつまらないとか、柄を選ぶ人はセンスがないとか。

私がいいなと思った柄が、呪われそうな柄だと言われていたりとか・・・。

他人のことなんて気にしていたら身動きとれない。

 

カーテンは大きな面積を占めるから無難にしといて、他で個性を出せばいいという意見があるけれど、壁紙や床含め、大きな面積がキマっていれば、後はとっても簡単で、逆に、大きな面積に個性や取り立てた魅力がない場合、他で頑張ろうとしてもけっこう限界があるなというのは、長年アレコレやってきてみた結果思っていたことでもあり・・・。

 

気持ちは完全に、カーテンにお金をかける派に傾いているわけで・・・。
きっと、プラン変更なしで進めると思います。