「私」は、ただ「反応」しているだけ。

アラフォー独身女子(彼女はいます)。「人生これでいいのか?」と思いながらも、「毎日楽しく暮らす」のが1番の望み。

自分に釣り合う人 ~自分の価値を見積もることの難しさ~

 


地方では生きづらいという理由で東京へ転職していったAちゃんと、2年ぶりくらいに会った。

 

Aちゃんは私より10歳くらい年下のビアンで、上京する前は、会社で結婚の話題を振られて嫌な思いをするし、出会いのチャンスもあまりないとのことだったのだけど、昨年の秋に彼女ができたと報告があって、その話を聞こうとこのお正月に私の彼女と3人で食事をした。

 
Aちゃんは、もてる。華やかなタイプではなく、ナチュラル系というのだろうか、程よくいい感じ。イベントやオフ会などがあると、必ずAちゃんを好きになる人がいる。

 

Aちゃんに彼女ができるかどうかはAちゃん次第だというのが、私と彼女(わかりにくいので、以下K)の考えだった。
かといって、お高くとまっているとかそういうことではない。

 

東京へ行く前にも、Aちゃんに彼女がいたことがあったが、失礼ながらAちゃんと釣り合うとは思えなかった。

 

外見的には地味だったし、Aちゃんの好みは女性らしい格好の人だということなのに、ボーイッシュというわけではないけどごく普通のカジュアルな感じだった。


人は外見ではないという意見もあるだろうけれど、外見も大切な要素だと思う。

 

 「人間は中身だ」などという人には、外見に顧慮しないでいられるだけの権力があると小倉千加子は書いていた。

「ファッション・センスとは悲しみの顕現である」と。

 

 

はたしてAちゃんの元カノに、外見の好みの差を埋めるだけの何かがあったのか。

そんなハードルの上がった状況にもかかわらず、その元カノはなにやら気障で、Aちゃんを不安にさせたり悲しませたりしている様子なのだった。

名の知れた会社に勤めていたのでプライドが高かったのだろうか。

いったいお前は何様のつもりなんだ、と私とKは陰ながら怒っていたものだった(余計なお世話・・・)。


その後、元カノの転勤を機に別れたとのことで、Aちゃんには、気障はよくないんじゃないか、話しやすい人がいいと思う、特にAちゃんはKと同じで自分から積極的に話題を出せるタイプじゃないからと伝えておいた。

 


Aちゃんが次に付き合う相手はどんな人なのだろうか。
Aちゃんは東京へ行ってすごく垢ぬけているのではないか、出会いの場もたくさんあるだろうから新しい彼女はAちゃん好みのフェミニンで素敵な人なのだろう、とKと想像していた。


2年ぶりに会ったAちゃんは、メイクもファッションも以前とは変わった印象もなく、新しい彼女はまたしても女性らしいファッションの人ではなかった。

 

聞けば、Aちゃんがいいなと気になった人にはアプローチするチャンスがなく(というかチャンスを作らず)、何人かの人にアプローチされた中から(確実になしな人もいる中で)、趣味が合って気を使わずに話せる人を選んだということだった。

 

数時間しゃべった中で、Aちゃんは「顔で選んでないから」と何度か言った。

 

写真を見せてもらったけれど、性格の良さそうな人に見えたし、きっちりメイクしているわけではないから美人という印象ではないけれど、顔立ちも悪くない感じだった。

 

それでも、「顔で選んでないから」と何度も言うということは、Aちゃんのタイプではないということなのだろう。

 

顔がタイプかどうかは、なかなかに大切なのではないかというのが私の考えだ。

客観的に美人かどうかではなく、個人的に好きか嫌いかというのは、個人的に付き合う相手、それも友人知人ではなく、恋愛対象とするのならかなり大切な要素なのではないかと思うのだけど。

 

性格だって顔に出るし。
その人がどんな人なのかは顔を見ればわかる説、を私はけっこう信じている。

また、内面が好きな人の顔って良く見えるし、内面が嫌いな人の顔はたとえ客観的に整っていたとしても嫌いに思えてくるものだと思う。

 


Aちゃん・・・。
なんだかまたしても心配になってしまっている。


Aちゃんの今の彼女は、ベストではなくベターなのではないだろうか。

 

と考えていて、私はKと付き合う少し前に考えていたことを思い出した。

20代後半だった私は、人は誰でも良いところがあるものだということがわかってきて、これまでは好みの範囲がとても狭かったけれど、もしかするともっとストライクゾーンを広げることができるかもしれないと思いはじめていた。

 

けれど同時に、ベストではなくベターな人と付き合ったとして、もしベストな人があらわれたら、ベターな人を邪魔に思うのではないか、それは面倒だし、ベターな人にも悪いことをすると思い、やはりベストな相手を見つけたいと思った。


ベターがベストになればいいのだけれど、直観みたいなものも案外に馬鹿にできないし、好き嫌いというものは、良い悪いでは測れない複雑なものだから難しい。

 

 

Aちゃんの今カノは、私とKからみると、顔も悪くないと思うし、趣味が合って話しやすいならいいと思う一方、ゲイの人と割り切って偽装結婚していて、離婚するタイミングを見計らっているというところがひっかかっている。


いずれ離婚するといっても多少なりとも波風は立つだろうし、その面倒さを補って余りあるものがないと付き合いたくないと私なら思ってしまうところだけれど、Aちゃんはそれはその彼女の問題だと割り切っているようだった。

 

 

Aちゃんが、以前ちょっといいなと思っている人のことを話しているときには、もっとはしゃいでいて、ときめきが感じられた。

付き合ってまだ3ヶ月くらいなのに、今回はそれが全く感じられない。

 

Aちゃんなら、好みの外見で性格が合った上でときめける人と付き合える可能性が十分あると思うのだけど、なぜちょっと妥協してしまうのだろうか。
本当に余計なお世話なのだけれど、歯がゆい。

 

Aちゃんの自己評価が、実際より低いのではないだろうか。


私なら、自己評価の低い人とは付き合いたくない。

なぜなら、人は自分の価値と釣り合う人を選ぶと思うから。

 

友人が、付き合っている相手を、こんな自分と一緒にいてくれる人はこの人しかいない(性格の相性とかそういうことではなく、単純に自己評価が低い意味で)という言うのを聞いたとき、私だったらそんなことを言われたらすごく嫌だと思った。

 

「こんな自分」の価値が、私の価値だと思うから。

 


これが結婚となると話はもう少し複雑になるだろう。


結婚していると世間体がいいし、生活していくために結婚する人もいるだろうし。

 

夫のことはそんなに好きではなかったけれど、とにかく結婚というものをしたかったから結婚したと公言する人に何人か会ったことがあるけれど、これは珍しい話でもなんでもないと思う。

 

結婚相手自身の価値とはまた別に、結婚それ自体に価値があるのだから。

 

付け加えると、結婚については、小倉千加子が、「階級」によって求めるものが「生存」・「依存」・「保存」と異なると看破している。

 

 

また、恋人がいないと耐えられないタイプの人は、付き合ってくれるというだけで相手の価値が上がってしまうので、自分の価値より低い価値の相手と付き合う可能性が高くなってしまうのではないかと思う。

 


しかし、Aちゃんは結婚をしようとしているわけでもないし、恋人がいないとダメなタイプでもない。

それなのに何故。

 

小倉千加子が結婚についての話の中で、買い物をするときには自分が支払える額がわかるので、予算の中で選ぶということが自然とできるけれど、人を選ぶときには、まず自分の価値を自分で見積もらなければならないので難しいと書いていた。


Aちゃんの価値は、本人が見積もっているより高いはず。

そして、そのAちゃんに今の彼女は釣り合わないと私とKは思っている。

でも、私とKがAちゃんの彼女の価値を低く見積もったとしても、Aちゃんが価値が高いと感じていれば何も問題ない。


人が人を評価するのに絶対はない。

私とKはどうやら、馬鹿な話で盛り上がれるということに大いに価値を感じているということを最近自覚してきたのだけど、馬鹿話をするなんて低レベルだと真っ当な評価をする人にとっては、マイナスポイントでしかないわけで・・・。

 


せっかくたった1人の相手を選ぶのだから(モノガミーの場合はですが)、お互いに自己評価が高く、そんな価値のある自分に釣り合うと思う相手への評価もお互いに高い、というのがやっぱり幸せなのではないのかなと思う次第。

 

Aちゃん・・・。

 

人が人を選ぶということの難しさを、しみじみと感じてしまったのでした。
そして、納得できねーなーと不満なのでした。
そして、完全に余計なお世話なのでした・・・。