「断捨離」してもしなくても、「生きていくこと」は「増えつづけること」
今日、知り合いの70歳の方が、私の仕事場に飾ってあるクリスマスグッズの数々を見て、素敵だと褒めてくださった言葉に続けて、「私もこういうの大好きだけど、断捨離しないと」とおっしゃった。
「私はいいと思っているものでも、残された人にとっては価値がないだろうから」と。
私は、力強く「断捨離流行ってますけど、ずっと好きなものに囲まれたままでいいと思います!」と伝えた。
「あなたはまだ若いから大丈夫」と言われてしまったけれど、若いと言っても不惑。
よくわからないけど、断捨離対象年齢には余裕で入っているのではないだろうか。
その方とはその後、クリスマスだけでなくお正月の飾り付けのことにまで話がふくらんだ。
断捨離と一口に言っても、厳しいものから緩いものまで幅があると思うけれど、思い出の写真まで処分してしまうようなのは、なんだか切なくなってしまう。
断捨離という言葉が生まれる前、私が大学生の頃だから、20年も前でも、そんなことが書いてある片づけ本を読んだことがある。
自分の大切な品を、他人には価値がないからといって、何故に手放さなければならないのだろうか。
本当にどーでもいい写真だと本人が思うのなら全然かまわないのだけど、残された人が困るだろうからという理由だと、それは生きている人が負うべき仕事でいいのではないかなと思ってしまう。
あと、センスのない人が飾ってもうまくいかないから、何も飾らずシンプルにすっきりした方が印象が良いという意見の本を読んだこともある。
飾るのが嫌いならばそれでいいけれど、飾りたい気持ちを抑える必要なんてあるのだろうか。自分の家なのに。
こうやって書いていると、整理整頓に興味がないように思われるかもしれないけれど、整理整頓は大好きで、彼女とはじめて出会ったときに、「休みの日は何してる?」という定番の質問に、「整理整頓!」と答え、その当時に知ったばかりの「70%収納」について熱く語ったほど。
彼女と付き合いはじめて自分の部屋にいる時間が減ったときに、「私は息をするように整理整頓すると思っていたけど、整理整頓しないと息ができなくなるのだ」と知った。
買ったばかりのものでも気に入らなければすぐに処分するし、買うときにはどこに置くのか、仕舞うのかということは自然に考える。
友人知人からはよく、私へのプレゼントを選ぶのが難しいと言われる。
「それ大切なんでしょう?(自分にはよくわからないけれど)」ともわりと言われてしまう。
物の置き場所もガチガチではないけれど決まっていて、物がみつからないときには、ここを探してもみつからないなら後は運に任せるしかないと絶望的になるくらい。
適当に仕舞うことは嫌いなので、未処理の書類や収納場所が決まらないものなどは、あえて出しっぱなしにしている。
見た目が整っていることよりも、頭の中がすっきりしていることが最優先。
今では生活に直接必要のないものでも潤いを求めて積極的に買う私にも、何も持たずにダンボール1箱分くらいの物で暮らしたいと思っていた時期がある。
中高生くらいの頃。
そして、大学生の頃には、物に執着せず、思い入れなくいつでも身軽にしていたいという理想があった。
その根底には、失うことの恐怖があったと自分では分析しているけれど、だんだんと、先のことはわからないけれど「今」を大切にしたいと思えるようになった。
意に反して失うときが来たとしても、それまで過ごしてきた幸せは失われない。
そう思えるようになった頃から少しずつ、本当に少しずつ、失敗もしながら(今でも・・・)、自分にとって快適な居場所を作ってきた。
自分が必要ないと思うもの、気に入らないものはどんどん処分したらいいと思う。
それは、マイナスを「0」にするようなもの。
でも、「0」よりも「1」でも「2」でもプラスを目指したい。
無難で誰からも嫌いとは言われないような(そんなものは存在しないけれど)ものを選んでも、結局は「0」なのだ。
邪魔ではないけれど、好きにもなれない。
いらないものがゴチャゴチャしているのは不快この上ないけれど、好きなものがゴチャゴチャしていたとしても、それは宝の山のようなもの。
宝箱から溢れ出る金貨宝石を見て、ゴチャゴチャしていて不快だなんて思う人はあまりいないのではないだろうか。
そうやって少しずつ積み重ねてきたものを、自分の死後のことを考えて早々に手放すなんて、または最初から手に入れようとしないなんて、生きている楽しみが大きく減ってしまうと思う。
去ってゆく準備なんてしなくていい。
(遺産的なことなどについては、残す人に伝えておいた方が親切だと思うけれど)
そして、整理整頓して心地良いならすればいいけれど、整理整頓する時間があったらどんどん前に進みたい人だっているだろう。
実は、そういう人に憧れる。
チマチマと私は一体何に時間を費やしているのかと思うけれど、性分なのだろう仕方がない。
要るものと要らないものを見極めて、愛するものたちと過ごしたい。
最後の最後まで。
えっと。
またしても、引用させていただきたい言葉があるのですが。
『悲しみの時計少女』という作品からの言葉です。
私のブログは異様に引用率が高いですが、私の考えはさまざまな作品や人のおかげで作られていて、どうやら私はそれをずっと忘れずにいたいと思うタイプのようです。
※一応、これは自分で考えついたと思うこともあって(もちろん世界初とかではないでしょうが)、「良いことも、悪いことも、次々にやってくる。」なんかはそうです。
そして、その意見を私が1人で考え出した意見かのように伝えるのが気が引けるのです。
それを全部書いていると収拾がつかなくなるので、グッと堪えることもしばしばですが、できるだけオリジナルの素晴らしさを知っていただきたいと思って、いろいろと引用させていただいています。
長々と前置きしてしまいましたが、これまで、断捨離と『悲しみの時計少女』を結びつけて考えることはありませんでしたが、書いていてふと繋がりました。
ああ、私が言いたいことはこれだ、と。
この素晴らしい作品が、自分の中で気づかないうちに根づいていたことが嬉しいです。
では、以下引用です(ネタバレあります)。
時計少女(以下、少女):その時計は、不良品ですわ。減っていく砂時計なんて、不良品もいいとこです。きっと、製作者が生きることは減っていくことだ、と思っていたために、そんな過ちを犯したのでしょう。
谷山浩子(以下、浩子):どこがどう間違いだっていうの?
少女:砂時計は減っていくものじゃなくて、増えていくものですわ。
浩子:かたっぽが減って、かたっぽが増えるから砂時計なんじゃないの?
少女:いいえ。かたっぽが増えて、もうかたっぽも増えるのです。上で増えるのは、空間。下で増えるのは、砂。
浩子:それなら、上で砂が減って、下で空間が減るっていう言い方だってできるでしょう?
少女:そう、それが、ここにあるこの砂時計です。あきらかに不良品です。製作者に教えてやらなくてはいけませんわ。生きることは減っていくことじゃなくて、増えていくことです。増えて増えて、いっぱいにたまったところで、人生が終わるのです。
(ラジオドラマ 青春アドベンチャー『悲しみの時計少女』第5回より引用)
物を持つことだけが豊かさではもちろんなく、物を持たないことで得られる豊かさもある。
物をたくさん持っているからといって愚かでもないし、物を持たないからといって悟りを開いて偉いわけでもない。
持っても持たなくても、最後の最後まで豊かに生きていきたい。
そんな風に思っています。