「私」は、ただ「反応」しているだけ。

アラフォー独身女子(彼女はいます)。「人生これでいいのか?」と思いながらも、「毎日楽しく暮らす」のが1番の望み。

『グッディの怒り』は、現代の日本を生きる女性たちへの応援歌

 

1日1BADDYどころか、2BADDY、3BADDYと観てしまう今日この頃。

頭の中を侵略されている。

 

わからないことがあると、「わからないっ、わからないっ」(byグッディ捜査官&ポッキー巡査)と歌声が聞こえてくる。

 

探し物があるときには、「どこにいったのっ!」(byスイートハート)の声が・・・。

 


呆れるくらい繰り返し観ていても、ひたすら、るりか様ステキ♡とか、ちゃぴ様かわゆい♡とか、地球の被り物どうしたっておもしろいよねとか、「あーー痴漢!」って言ってるところIKKOさんを思い出させるな、とか思いながら観ていて(ときに歌い踊り、テンションが上がって文鳥に「さくちゃぁぁんっ!」と男役さんの真似をして呼びかけたりも・・・)、頭の中はお花畑。

 

 

ウエクミ先生がちりばめてくださっている問題提起や風刺について一つ一つ考えるに至っていない。

 

LGBT問題については、当事者であるだけに複雑な思いをなんとなく感じながらも、スイートハート様♡という段階で思考が止まってしまっている・・・。

 

 


そんな私をお花畑から連れ出すのが、S8の「グッディの怒り」だ。


「怒り」がポジティブに表現されている。

 

グッディとロケットの皆さんが、怒っているのに美しい。

 

「怒り」と「美しい」は矛盾しない。

 


「怒ってる!」
「生きてる!」

 

 

自分の中から湧き上がる感動が何なのか、最初はよくわからなかった。


女性が抑圧されている(抑圧されていることに気がつくことに訓練が必要なくらいに)この日本社会で、女性が怒りを露にするということが琴線に触れるのだろうことはすぐにわかった。

 

けれど、そんな表現を目にするのが宝塚がはじめてなのだろうか?という疑問も浮かんだ。


とりあえず、なぜか「プリキュア」の戦闘シーンの動画を観てみた(笑)


女の子が同性の仲間たちと戦っている姿を小さいころから見ることのできる今の子どもたちは羨ましいなと思ったものの、いかんせ対象年齢から外れすぎていてよくわからなかった。

 

自分の世代だと、「セーラームーン」かなと思ったものの、楽しんで観ていた記憶はあってものめり込んだりはしていなかった。

 

観ていないので完全に勝手なイメージだけれど、「チャーリーズ・エンジェル」も戦う女性だったような?と思ってみても、ちょっと違う感じがした。

 


単に好みの問題か?とも思ったけれど、上記の3作品と「グッディの怒り」に違いを見つけた。

 


それは、『BADDY』流に表現すれば、
「いいこ」か「いいこじゃないか」の違い。

 

もう少し付け加えると、
いいこであれという期待にどのくらい応えているかの違い。


いつもは「やっ!」と明るく元気な掛け声の、「清く・正しく・美しく」のジェンヌたちが、「怒り」を表現したからこそ、こんなにも熱い気持ちにさせられるのだと思う。

 

女性が怒る姿は醜いと評価され、通常装備で笑顔を求められる今の日本で、「怒り」が美しく表現されていることに力をもらう。

 

 

そして、ウエクミ先生の歌詞の素晴らしさ。


「怒ってる!」
「生きてる!」

 


怒ることによって、「生」を感じられる。

 


怒ることは価値のあることだというメッセージは、今の日本社会に生きている女性にとってこの上なく重要なことだ。

 

 

東京医科大の事件には本当に度肝を抜かれたけれど、大学側の対応はもちろん、世間の反応にも失望した。

 

そのうえ最近、五ヶ瀬中等教育学校でも、男子の合格者よりも点数が上にも関わらず不合格になった女子が49人もいたことが明らかになった。

 

 

空気のような差別でも何でもない、これほどまでに直接的な差別があるなんて。


男は下駄を履いている。


いや、下駄はもともと履いていての上乗せなのだから、竹馬に乗っているのだ。

 

 

怒るべき。

 

怒りをきちんと表さないと舐められっぱなしだ。

 
受け流すことが賢い生き方だとは思わない。

 

我慢すれば円滑だなんて、嘘。

諦めれば楽だなんて、嘘。

 

 

「怒ってる!」
「生きてる!」

 

 

『グッディの怒り』は、現代の日本を生きる女性たちへの応援歌だ。