「私」は、ただ「反応」しているだけ。

アラフォー独身女子(彼女はいます)。「人生これでいいのか?」と思いながらも、「毎日楽しく暮らす」のが1番の望み。

『金色の砂漠』~ この作品は、単純に理解したくない ~

 

 

 

宝塚スカイステージで放送されていた『金色の砂漠』を昨夜観たら、しくしく泣いて眠れなくなってしまった。


いつもは悲劇の後でも楽しめるお芝居後のショーも、心ここにあらず。

さよならショーがはじまり、気持ちがいよいよ切り替えられないので寝ることにしたものの、眠れず。

 

ホットワインを飲んでベッドに入るも、すぐに起き上がってアレコレと考えてしまう。

どうしようもないので、さらにウイスキーのお湯割りを飲んでようやく眠りについた。

 


一夜明けて、昨夜混乱の中で考えたことを記しておきたい。

 

 

まず、私はどうやら宝塚にいろいろと偏見があるらしく、宝塚のお芝居でこんなにも泣いてしまうということに驚いた(私にとっては初のウエクミ先生のお芝居なので、その可能性もあるのかなとは思いつつ)。


過去、歌舞伎に対しても同じようなことがあって、『刺青奇偶(いれずみちょうはん)』を観たときに嗚咽するくらい泣いてしまい、そのときは1人じゃなく歌舞伎座だったのですごく困ったという思い出がある。


私は、宝塚も歌舞伎も、お目当ての人や様式美が最優先で、宝塚ならお芝居よりレビューが、歌舞伎なら舞踊ものが好きというところも共通している。


油断できないなぁ・・・

というのはさておき。

 

 

『金色の砂漠』


序盤から主役2人の感情が複雑で、これは「文学的」な物語なのでは?と感じたが、その印象のまま幕となった。

 


「文学的」の定義とは?

 

私は日ごろ「文学的ではない」物語を好んでいるという自覚があるのだけれど。

 

文学的ではない=ご都合主義

 

文学作品にあまり接していない私が参考にできる例が少ないので説得力にかけるとは思うけれど、パッと思い浮かんだのは、トルストイの『戦争と平和』と、カズオイシグロの『わたしを離さないで』。

 


『戦争と平和』は、BSのドラマで観た。

 

主人公とその妻の浮気相手が決闘して、浮気相手が重症を負いそのまま別れて数年後、その2人が野戦病院で再会した時には手を取り合って喜んでいたシーンに、人の心の複雑さがそのまま表現されていて、もちろん言葉で説明しようとすればある程度できるのだけど、言葉にしたら切り捨てられてしまう部分も全部ひっくるめて表現するために文学があるのだと思った。


『わたしを離さないで』は、カズオイシグロ自身がインタビューで語っていた、この作品を書く動機がポジティブだったことに惹かれて読んでみた。

 

ポジティブなテーマは確かに読み取ることはできたけれど、さまざまな感情が去来して、読後はこれまで味わったことのない感覚だった。
このときほど静かに1筋だけ涙が流れたことはなく、本当に不思議な読後感だった。

 

 

ギィとタルハーミネの感情を、生い立ちに翻弄され、愛と矜りの狭間で愛憎入り混じるものと言ってしまえばそれまでなのかもしれないけれど、それでは零れ落ちてしまうものがあまりにも多くて、言葉にして切り取るべきではないと感じた。


普段は現実世界の複雑さを生きるために多分に言葉に頼っていて、それだからこそ、私はフィクションでは単純さを愛するのだと思うけれど、この作品は安易に単純化せずに複雑なままにまるごと引き受けなければならないと思った。

 

 

王族に女の子が生まれたら男の、男の子が生まれたら女の奴隷をつけるという不思議な「しきたり」の理由が不明だという設定も、ご都合主義だとは思わなかった。


現実にも、今となっては理由もわからないし、わかったところで納得しずらい「しきたり」が古今東西珍しくなく存在する。
私たちは、理路整然となんて全くしていない世界に生きているのだから。

 

全てにきちんとした理由がある方がフィクションなのだ。

 

 

舞台は隅から隅まで完璧に美しくて別世界だったけれど、ギィとタルハーミネの感情はとてもリアリスティックで、受け止めるのにエネルギーが要った。

 

それでも、少しの疲労感とともに、この作品に出会えた幸せを噛みしめている。

 

 

私の思いにぴったりの言葉があるので、それを最後に。

 

 

 

愛だったかなんて 

 

誰もわからない 

 

教えてほしくない

 

 

(作詞:覚和歌子 『わが麗しき恋物語』より引用)