料理下手に、「白い食器」は手に余る。
私は料理が苦手。
理由は簡単。雑だから。
じゃあ、料理に興味がないかというと、そんなことは全くなくて、料理本もけっこう買って読んできたし(嫌々じゃなく)、こんな風に調理を楽しめたらとか、こんなテーブルコーディネイトだったらとか、そういう憧れみたいなものはずっとある。
おしゃれ・節約・オーガニック・伝統的・家庭的・お菓子・保存食、
節操なく一通り興味があったりしたのだけれど。
もう私には向いてないって認めてしまおうよ、という気持ちになっていて・・・。
一体それがいつ頃からそう思うようになったのかもわからなくなってしまったけれど。
これっていう方向性も特に決めないで、気が向いたときに頑張りたかったら頑張ればいいよね、そのときのテンションに任せて、と自然に受け入れるようにいつの間にかなっていた。
はっきり言って、私にとっては手抜き料理であっても、ものすごーーーーーく面倒くさい。
基本的に全ての工程が面倒くさい。
1つ1つの作業を楽しめない。
常に全ての作業を早く終わらせたいと思っている。
まな板の上が混雑しがち。
炒め物だって、材料を切って、炒めて、味付けして(これがプレッシャー。ここで失敗したら元も子もなくて、取り返しもつかなくて・・・)、食べ終わったら洗って片付けて。
大変です。
鍋だって、切って煮るだけとか言うけど、それがもう大変なのですよ・・・。
それなのに、『きのう何食べた?』を熟読して、付箋なんて貼っちゃったりしている。
理想と現実が折り合わない。
何年か、お惣菜や冷凍食品などに頼って生活していたけれど、ついに飽きてしまった。
スーパーやコンビニのお惣菜や冷凍食品を食べ飽きて、買い物に行っても、な~~~~~~~んにも食べたいものがなくて困っている。
(よく節約術として、お腹が空いているときには買い物に行かないようにって言うけれど、お腹がいっぱいのときに買い物に行くと、なんにもほしくなくてあまり買えなくって、帰ってきてお腹が空いてからものすごく困る。)
ここ数か月はまだマシになってきたけど、作らないわけにはいかない状況。
騙し騙しやっている。
料理を頑張りたくはないけれど、食事は楽しみたい。
そんな我儘な思いをなんとなく持っていたのだけれど、お正月用の食器を使っていて気づいた。
食器の力って偉大!
それはもうとっくに知っていた知識ではあったけれど、これまで私が読んできた本は、白い食器押しだったし、特に押してなくても当たり前のように料理本は白い食器が断然多くて、そして次に黒といった感じだった。透明とか。
そして私も、当然のように白い食器を買い集めた。
デザインや、厚みなどにはこだわって、気に入った物を買ってはきたけれど、ものすごーく好きかと問われると、まあちゃんと好きなわけだけれど・・・。
何が問題って、白い食器は、料理の魅力を邪魔しないこと、料理を引き立てることが最大の利点にも関わらず、そもそも私が魅力ある料理を作れないのだから。
変ではないけれど、良くもない。
鍋を取り分けるとき、鯖の味噌煮を食べるとき、私は白い食器よりも、おまけでもらった薄紅色の模様の和食器を選んでしまうなとは思っていた。
それの他には、色つき柄つきはほぼなく、かろうじてランチョンマットは、ジョルジュ・バルビエの絵をラミネート加工したもので、なんとか華を添えていた。
一昨年末、急に豆皿を中心としたお正月のテーブルコーディネイトをしたいと思った。
昨年のお正月は、豆皿は、鶴の形、富士山の形、浜千鳥の形、白菊の形などの他、文鳥の絵柄を松竹梅バージョンで揃えた。
他には、文鳥が2羽寄り添っている形のお皿を5枚も買ったり、九谷焼のひょうたん柄の姫皿も買った。
ただ黒豆とか、蒲鉾とか、ワサビや塩なんかを盛っているだけなのに、とっても気持ちが華やいだけど、そのときはお正月自体の楽しさと混ざってしまい、食器だけにそれほど注目できずにお正月だけの楽しみとして終わってしまった。
そして、昨年秋から楽しみにしていた今年のお正月。
今年は、徳利(のし柄)と盃(鶴の絵)、箔一のミニ2段重箱、九谷焼の馬上グラス(2)、有田焼の姫皿(鯛・瓢箪)、豆皿(膨雀・捻梅)、捻梅の銘々皿、鶴の形箸置きを買った。
1月はずっとお正月というのだと知って、今月はずっとお正月の食器を使っている。
スーパーで買ってきたパックに入ったちらし寿司を、箔一の重箱に移し替えてみたら、こんな良いちらし寿司は食べたことない!って雰囲気になった。
傍らには、可愛い鶴の形の箸置き。
箸は根元に文鳥の絵。
今年はお正月自体の魅力と混同することはなく、自分の作る(または作らなかったりして出来合の)華のない料理を、器の力でなんとかしてもらえばいいんだ!と気づいた。
私に白い食器を使いこなせる力はない。
白は万能というけれど、それは料理自体に魅力があるときに限られるという当たり前のことに、なんで今まで気づかなかったんだろう。
ファッションだと、シンプルなボトムスに白いシャツみたいなのが似合う人って、スタイルが良くて美形だからこそだよねなんていうのは定番の会話なのに。
(ちょっとしたパーティーにも着ていけますよって言うけど、ちょっとしたパーティーなんてねーよ、って感じで。)
服だったら、自分自身の素材とメイクで勝負、あとはシンプルでとか思いもしない。
服に頼る気満々。
プチトマトとか、パプリカとか、ルッコラとか、三つ葉とか、パセリとか、食べたくもないのに買いたくない。
(そういえば、白い食器押しの本で、白い食器は和食には合わないのではないかという意見をいただいたけれど、バランを敷けば大丈夫!と書いてあって、そのときはそうかなと思ったけど、バランなんて用意してらんないよね・・・)
そういうのを買いたい時って、まれに料理熱が高まったときか、ここぞっていうときだけ。
常には頑張れない。
土井善晴の『一汁一菜でよいという提案』に救われたっていう人が多いらしい。
田房永子なんて、読まなくてもこの本が存在しているだけで救われるなんて言っていた。
(ぜんぜん関係ないけど、私はブログ村で、ほとんど読まないけどタイトルを眺めたいために『77歳を生きている』というブログをフォローしている。)
レビューを読むと、土井先生も器は大切と言っているとかなんとか書いてあった。
料理に労力はかけられなくても、食事は楽しみたい。
頼れるものは何でも頼ればいい。
そんな画期的な発見に浮かれている中やってきたのが、幸楽窯の菊尽くしシリーズの深皿だ。
直径は22センチくらいで、ぐるっと一周5センチくらいの幅で、ピンク系の菊の花が描かれている。画風は和モダンって感じ。
白い食器ばかりの中で、お姫さま♪って雰囲気で、キッチンにあるだけで場が華やぐ。
ステーキを、付け合わせなしで盛ってみた(盛るっていうか入れるっていうか・・・)。
白いお皿だと、さみし~い感じになっちゃうだろうに、とっても美味しそうだし、高級そうでさえある。
冷凍のペスカトーレも輝いている。
マルちゃん焼きそばでさえ、ちょっと高級中華っぽくなってた。
素晴らしいな。ほんと。
白い食器は食器で、気に入って集めたものばかりなので(値段的には安いものが多くて100均も多数。元値は高くても閉店セールで100円だったり)、処分したいとは全く思わない。
それらは今後も大切にしつつ、これからは出会いがあれば、色や柄や絵のついた食器を揃えていきたいと思っている。
あ、最後に1つ付け加えたいことが。
食器に気を配ったり、洗い物が面倒なときは、紙皿とかパックのままとか、アルミホイルとか割り箸とかも全然ありな生活してますので・・・。
後片付けがない!っていう気持ちで食べるのは別の方向でまた格別。
そういえば、彼女とスーパー銭湯の帰りに外食したとき、2人とも帰ったらお風呂に入らなくてもいいのが嬉しすぎて、過去最高に美味しい食事だと言い合ったことがある。
美味しいと感じるかどうかって、料理の味以外にさまざまな要素が関わっているというのは誰もが知るところ。
お腹が空いているときに食べるのが1番とか。
人は本当に幸せなら食器なんて何だっていいと思えるものだという小倉千加子先生のお言葉を思い出さずにはいられない・・・。
ただでさとりとめのないブログなのに、話がどんどんとっ散らかっていってしまっていますが・・・。
料理ってわりと悩みの種だと思うので、頼れるところは何にでも頼って楽しく食事を、ということなのでした。おわり。