「私」は、ただ「反応」しているだけ。

アラフォー独身女子(彼女はいます)。「人生これでいいのか?」と思いながらも、「毎日楽しく暮らす」のが1番の望み。

「意見」と「異見」~「田房永子の痴漢分析」などから考えてみた~

 

インターネットの普及によって、誰もが発信できる時代。
多くの人の意見を簡単に知ることができる。

 

しかしながら、その意見は既に知っているということの方が多い。

多くの人の「意見」というものは、既にある考えに一票を投じるという風なことだと思う。


それが悪いということではもちろんない。


何度繰り返しても足るということのない意見はたくさんあるし、

会話にしても、同じことを繰り返し話していても、とても楽しいということも不思議なことでもなんでもない。


無理矢理に人と違う意見を出そうとする必要などない。
逆張りほど意味のないものもないと思うし。
多数派だろうと少数派だろうとオリジナルだろうと、ちゃんと向き合って自分の意見を出せばいい。

自分の意見を表明することには意味がある。

 

 

ただ、世の中の意見のほとんどがどこかで聞いたようなものだからこそ、そうではない「異見」を生み出す人が貴重すぎて痺れる。

 

 

情報というものは、すでにあるものと違い、既存のものとの「距離」のなかに生まれます。これを「オリジナリティ」と呼びます。私は「いけんがありませんか」というときには、かならず「異見」と書くようにしています。異なる見解というわけです。ご「異見」というのは、その人のオリジナリティのことです。「異見」というのは、あなたと私はここが違うという距離のことだからです。
オリジナリティとは、現にあるものとその人との距離を指します。したがって、オリジナリティを獲得するためには、現になにがあるのかを知ることが大切です。これを別名、教養と言います。だから教養はないよりあったほうがよい。ただし、教養だけがあってもオリジナリティが生まれるとはかぎりません。


(上野千鶴子著『サヨナラ、学校化社会』より引用)

 

 

「教養だけがあってもオリジナリティが生まれるとはかぎりません。」

 

厳しいけれど、それは実感としてよくわかる。


同じものを見ているはずなのに、私には見えなかったことを教えてくれる人。

私も感じてはいたけれど言語化できなかったこと、またはしようともしていなかったことを言葉にして新たな視点を与えてくれる人。

 

自分の力では得ることができなかった視点。
その視点を得たことによって、私の見方が変わり世界が広がる。

感動してもしたりない。
ワクワクを通り越して、ゾクゾクして、それでいて熱い湯に浸かったときのように「あ゛~~~~~・・・」と声が漏れてしまうようなそんな感動。

 

 

いまだに、ナンシー関が生きていたら、これについて何て言っていただろうと思うけれど、亡くなってなお「異見」を聞きたい人がいたりする。


「異見」ってそれほどに貴重だ。

 

 

私の「異見」欲を満たしてくれる、常々絶賛大注目中の人、それが「田房永子」。

 

「毒親」についての漫画で知られていることが多いのかなと思うけれど、「男」の捉え方やフェミニズム系の話などもとても興味深い。興味深すぎる。

 

中でも、「膜」という概念の発見は秀逸で、大発見といっていいと思う。

 

 

彼らにとっては、自分が相手に加害を加えているというよりも、自分の世界、自分の半径1メートルを覆う膜のようなものの中に、女の子が入ってきた、という感覚なんだ。

 

(田房永子「どぶろっくと痴漢の関係」より引用https://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/2014/08/19/entry_005292.html

 


最新は↓

 

ワイ君を着替えさせる時、ズボンを脱がせ、おむつもとった。ソファにつかまり立ちしているワイ君にオムツをはかせようとすると、ワイ君が放尿した。私はその立ち小便を見て衝撃を受けた。

濡れない。男は足が濡れないのである。

女が全裸で立って放尿したら、太ももから膝下、足の裏までビショビショになる。だけどワイ君の尿は弧をえがいて本人の体から離れたところに落ちた。

全裸で尿をしても、何も変わらないワイ君の足の皮膚。床の尿を拭きながら、呆然とした。男達のあの「無関心」ぶりと「遠くに落ちる尿」が、私の中で完全にリンクして腑に落ちた。

男って、体の構造からそうできてるんだ。

 


(田房永子「私は男性を嫌悪などしていない! 後編」より引用)

 

 

 

ああ、世界が広がる・・・。

 

 


こんな素晴らしい「異見」がある一方で、

その「意見」って何度も聞いたことある上に、すでに論破されているにも関わらず、なんでそんなに偉そうに発表できたの?そして、なんでそんなに賛同されてるの?こんな意見を臆面もなく出す人と一緒の世界に生きているなんて耐えられないんですけど、と思う意見もある。


それは、ハラスメントや差別をされた側に問題の解決を求める意見。


痴漢にあったのは服装のせいだとか、そんな時間にそんな場所にいるのが悪いだとか、護身術を習えだとか。

それくらい穏便に対処できないととか、昔はおおらかでよかったとか。

仕事がからんでいればお前だって得をしたんだろもっとプライドを持って生きないととか。

腸煮えくり返る意見がいまだに見られる。

 


えっと・・・、この意見ってすでに「二次被害」という名前までつくほど瞬殺で論破されるやつじゃなかったでしたっけ?


将棋や囲碁の定跡(定石)みたいな感じで、もう散々やり取りされてきたアレですよね・・・。
それをさも妙案かのように言えるってすごいっていうかなんていうか馬鹿っていうか・・・。


まあ、お決まりの意見に一票って感じの人が多いのだけど、たまにいいこと言ったくらいの感じの人がいて驚かされることがある。

加害者を責めるのが普通なところを、一捻りして被害者にも責任があるとしたところにひと味違う感じがしてしまうのか?とか想像してみるも、その思考回路が全くわからない。


腸煮えくり返る思いもしつつ、いやもうこの議題については決着ついてますよね・・・・、と徒労感を覚える。

 


「オリジナリティを獲得するためには、現になにがあるのかを知ることが大切です。これを別名、教養と言います。だから教養はないよりあったほうがよい。」


学者じゃないのだから先行研究を調べろなんて言えないけれど、教養必要だね・・・とは思う。

 

「意見」にしろ「異見」にしろ、たくさんの人が発信するさまざまな「いけん」にどう対するか、自分はどういう「意見」を述べて、どういう「異見」を生み出すことができるのか。


ブログをはじめて、ようやっと2ヶ月。
この視点は、ブログをはじめる前より強く心にとめておきたい。