「私」は、ただ「反応」しているだけ。

アラフォー独身女子(彼女はいます)。「人生これでいいのか?」と思いながらも、「毎日楽しく暮らす」のが1番の望み。

「LGBT」恐るるに足らず ~私たちは、ただ暮らしているだけ~

 

 

Twitterで、トランス女性差別について激論が交わされている。

 

私はTwitterは主に、かわいい文鳥を見たり、すぐ売り切れてしまう文鳥グッズの発売情報を得るために見ていて、一応フェミ系やLGBT系のアカウントもフォローしているけれど、日々熱い議論が繰り広げられているのを横目に見ながら、議論に加わることはほぼない。

 

昨年末くらいから、性別適合手術を受けていないトランス女性が銭湯に入ることを認めるか認めないかということが話題になっているのはなんとなく知っていたけれど、年が明けてますます議論がヒートアップしていっていき、私の知人たちが仲違いするにいたって、そして、黙している人も差別に加担しているという意見をたびたび目にするにいたって、ここ数日いろいろ考えて頭がキューっとなってしまっていた。

 


心が女であれば誰でも女湯に入っていいということになれば、トランス女性だと偽って入ってくる男性をどうやって防いだらいいのか、怖い、そんなことは認められないという意見。

 

わかる。

 

でも、だからといって、何の罪もないトランス女性に対して、あなたは怖い存在だと言うのは酷いことだし差別だという意見。

 

わかる。


シス女性のために、トランス女性が我慢を強いられなければならないのはおかしい。

 

わかる。

 

でも、そのためにシス女性が危険にさらされるなんてダメだ。


わかる。


トランス女性の中には、女性と認められないような人もいるし、犯罪を犯す人もいる。

 

わかる。

 

本当の女性かどうかを決める権利はあなたにはない。

 

わかる。

 

犯罪を犯す人はどんなセクシュアリティの人の中にもいて、トランス女性の犯罪だけ1件でもあったら全てのトランス女性の権利が奪われることになるのはおかしい。

 

わかる。


差別はどんな属性の人に対しても絶対にダメだ。

 

わかる。

 


・・・・・・、

みんなわかってしまう。

 


この議論で明らかにアウトだと思うのは、トランス女性と犯罪者を混同してしまっていたり、何の罪もないトランス女性を貶めるような発言をする人たち。


元参議院議員の松浦大悟氏も誤った情報でトランス女性への恐怖を煽っている。

 

 

完全にアウトだという人も少なくはないけれど、どちらの意見もわかると感じることが私には多いこの問題。

 

何故そんなに言い争いみたいになってしまっているのか。


思考が堂々巡りすぎて、みんな忙しすぎるのかしら?と思ってみたりするほど。

 

「自分は正しいって思ってる人って、なんでいつも強張っているのだろう」と田中美津は書いていて、強張るとしたらそれは体調のせいだから、体調が悪かったら相手には上手く伝わらないだろうと思うから言わないとのことだったけれど。

 

とはいえ、差別は悪。

体調が悪くても、意見を言うべきときは言わねばならない。

 

差別はどんなものであっても悪いというスタンスは変えてはいけないし、自分の問題さえ解決されれば良しというものではない。
それは単純に倫理の問題だからではなく、この世に差別がある限り、今自分が差別されていなくてもいずれ差別される可能性があるという、どこまでも自分の問題なのだから、向き合わざるを得ないのだ。


渋谷区がセクシュアルマイノリティに積極的に理解を示した一方で、ホームレスの人たちを排除したことを受けいれてはいけない。

 

 


などなど考え続けていて、ハッと気づいたのだけれど。

 

なぜこんなレアケースのことで、みんなお互いを罵倒し合うほどの事態になってしまっているのだろう。

 

そして、連鎖的にハッと思い当たったのだけれど。

平沢議員の「LGBTばかりになったら、国はつぶれる」発言。


個人的には、セクシュアル「マイノリティ」なんだから、つぶれるわけないじゃん、増えるとか思ってるんだったらただの勉強不足、と一笑に付していたのだけれど(相手は政治家なので、きちんと抗議をすることはもちろん必要です。LGBT法連合会が抗議しています)。


そして、杉田水脈議員の「生産性」。

 

 

みんな話がでかい!

 
「マイノリティ」なのだから、権利を認めたところでマジョリティの世界にたいした影響を与えるはずがないと思うけれど、もしかして、セクシュアルマジョリティの方々がイメージするセクシュアルマイノリティというのは、ものすごいパワーを持っていたり、超個性的なそうそうたる面々だと思っているのでは?と思った。


メディアに出るセクシュアルマイノリティは、メディアに出るセクシュアルマジョリティと同様に、一般人ではないのは仕方のないことなのだけれど、セクシュアルマジョリティの人たちからすれば、知っているセクシュアルマイノリティ=個性の強い人となってしまうから、知らないセクシュアルマイノリティも概ねこんな感じなのだろうと思ってしまうのかもしれないと推測している。


ナジャ・グランディーバと釜愚痴ホモ恵のトークはすごく好きだったりするけれど、もしかしてトランス女性のイメージってそんな感じなの?と思ってみたり。

そもそも、ドラァグクイーンとトランス女性は違うわけだけれど(もちろんオネエも)。

 

 

あと、タレントとかじゃなくて、一般のLGBTを取り上げた場合でも、どうにもこうにも一般じゃないよね・・・、という例も少なくない。


ビアンカップルの家族のアパートが映ったときに、一緒に見ていた友達が「この部屋ベニヤ板・・・」とショックを受けていた。

LやTは貧困に陥りやすいけれど、情報が1つ多くのっかってくると、そこで伝えようとしていた本質が見えにくくなってしまう。

 

私が忘れられないのは、トランス女性としてインタヴューを受けていた人の格好が全身ピンクだったこと。

まじめな番組で、終始まじめなインタヴューだったけれど、スムーズに話が入ってこない。


全身ピンクでコーディネイトするなんて、シス女性ならよっぽどの変わり者か肝が据わった人だと思うし、もしその人がそのどちらでもないのなら、女性は自由にファッションを楽しめるという幻想を抱いている人だと思った。


全身ピンクなんて、林家ペー&パー子と同じくらいの特殊さなのに。
林家ペー&パー子を見て、一般的なセクシュアルマジョリティのことがわかるわけがないのと同じように、全身ピンクのトランス女性を見て、一般的なトランス女性のことがイメージできるはずがないのに。

 

一体なぜこの人を取り上げようと思ったのか。

 

私はゆる~くLGBT支援に関わっているので、その理由がなんとなくわかる気がするのだけれど、LGBTを取り上げたいと思っているメディアの人は、とりあえず取材に応じてくれる人を深く考えずに報道してしまうと感じている。

 

取材に応じる人は、意識が高い人や覚悟のある人の他には、精神状態が不安定な人が多い気がしている。
取材を受けることで自己肯定感が高まるのかもしれないし、妙にテンションが高いのが理由かもしれない。

 

いずれにしても、メディアに出るセクシュアルマイノリティは、一般的なセクシャルマイノリティの実態を表しているとは言い難い。

 

メディアで活動している人は、何かしら個性が際立っていたり、優れたところがあったり、セクシュアルマイノリティの問題に仕事として関わっていたりする。

 

LGBTの人たちの中で、一般の人よりも魅力的だと感じる人は、実はセクシュアリティとは関係のないところでのリソースがあることが多い。

だからこそ、1つマイナス要素があっても跳ね返せるだけの力があるという身も蓋もないことだったりする。

 

ゆる~く活動している(活動ともよべないようなレベルの)私は、メディアで活躍する人と多少交流したこともあるけれど、そのアクの強さについていけなかった。

 

一方で、活動なんて全くしていない友人知人の中では、私は少しは意識が高い方で、友人知人の特に何も考えずに生きていく姿勢に、そんなに諦めて生きていっていいの?と思ってしまう。

私と彼女が出会うきっかけになったオフ会に、当時セクマイではなかった私が参加したのは、ビアンの人たちならフェミニズムの話ができるのではないかと思って場違いなのに参加させてもらったのがきっかけなのだけど(今も付き合いのある主催者は、彼女に「変な人くるよ。期待しないで」と言っていた・・・)、そのとき仲良くなった人たちと数知れず会って話しても、誰も社会問題についても、将来のことについても真面目に話すということはなかった。

 

それで物足りなくなって、「活動」というものをしてみようと思ったのだけれど、そちらのテンションにもついていききれなくなって、今はゆるく関わっている。

(めちゃやる気のある人が入ってきたらどうしようなんて不届きなことを考えて、タモリが番組をはじめるにあたってスタッフを集めて言ったという言葉「やる気のあるものは去れ!」を思い出したりなどしている・・・)

 


そんなわけで、トランス女性と会う機会もまあまああるのだけれど、正直なところ、全身フリルでピンク系の人はいた!その年齢でそのスカート丈はないだろうという人も。(基本的にはみんな好きにファッションを楽しんだらいいと思っています!)

 

でも、それもやはり特殊だからこそ印象に残るのであって、多くのトランス女性は女らしい!恰好はしていないし、溶け込みファッションとでもいいたいほど、自然。

 

昨年末、私はあるトランス女性から「私の格好どうですか?」と訊かれて、最初はファッションチェック的なことを私に求めているの?と意味がよくわからなかったのだけど、よく訊いてみると「私の格好は変ではないですか?」ということだった。

 

その人の格好は、変どころか、色のバランスとか差し色とかしっかり気をつかっているのがわかる素敵な恰好で、一方私はといえば、ブラックとブラウンで無難にまとめて、靴もがんばる元気がなくてぺたんこ靴だった。
一緒にいたゲイの友人にいたっては、防寒重視の変といってもいいような恰好をしていた。
なぜ私たちに聞くの?という状況なのだけれど、本人はそのくらい自分がおかしくないかどうか不安なのだろうと思って切なくなった。

 

事前にちゃんと女性に見えるか不安です的なことを書いてきた人が、実際に会ってみると、何をそんなに不安に思う必要があるのかというほどの溶け込みファッションで、人がよさそうな、これまた私より良い印象を持たれるのではないかと思うような人もいた。

 


街でたまにみかけるトランス女性は、目にとまるくらいには浮いているので人の記憶に残ってしまうと思うけれど、実際はもっと周囲に溶け込んでいるのではないかなと思う。
そして、浮いていたとしてもそれはそれで問題などないとも思う。

街で、この人男に見えるけど格好は女、そして堂々としている、という人をたまに見かけるけど、しばらくすると「おかあさ~ん」とか言って子どもが駆け寄ってきたりして、押しも押されもせぬ女性だということがわかったりする。

セクシュアルマイノリティとセクシャルマジョリティの差なんて、本当に大した差じゃないと思うのだけどね・・・。

 


実際の多くのLGBTは、誰かを脅かすなんてとんでもない、悲しいくらいに一般人なのだけれど、一般人というものは露出しないものであるので、なんとも難しい・・・。


このまま静かに暮らしていければそれでいいのだけれど、制度を変えてもらったり、周囲の理解が深まらないと困ることも多々あって。


昨年の春、私が救急車で運ばれたとき、連絡を取れる人を訊かれて、「近くに友人が住んでいて・・・」と彼女に連絡をとってもらおうとしたけれど、「ご家族でないと」と言われてしまい、「でもすごく親しくて・・・」と言うと、「彼氏さんですか?」と訊かれ、「ではないんですけど・・・」とそれ以上言えず、そのあとも何度か言おうかどうしようか迷ったけれど、結局言えなかった。

今ケロっとしているから、余計なこと言わなくてよかったーと思うけれど、これが死ぬ事態になっていたら、後悔するどころではなかっただろう。


やっぱり社会を変える努力は必要で、このままただ暮らしているわけにもいかないのだよね・・・あー本当に難しい。

 


とりあえずは、トランス女性に対して特殊すぎるイメージを持っている方には、実際はすごく繊細な方が多いですよということを知っていただきたいし、LGBTの多くはTHE一般人ですので、無駄に恐怖を煽るような話には注意していただきたいと願います。