「世間」は疲れる。
見ず知らずの人と身内の間に、「世間」はある。
今日、母親に連れられて、実家の近所の小さなギャラリーへ行った。
歩いて5分くらいなのに、私はそんなところにギャラリーがあることを知らなかった。
実家に滅多に行かないから知らないのではなく、週4日実家へ行っているにも関わらず。
母はギャラリーのオーナー夫妻と馴染みらしく、親しげに話していた。
母の友達もいて、その娘さんもいたのだが、中学以来ぶりに会う私の同級生でもあった。
特に仲が良かったわけでもなく、25年ぶりに会うのだから、初対面のようなものだ。
私が、「どこかで会っても気づかないね!」と言うと、
「のいちゃん、全然変わってない。すぐにわかるよ!」と言われた。
25年ぶりなのだから、私が若く見えるということではもちろんない。
私が忘れているのだ。
私は、「よくそんなこと覚えてるね」と言われることがけっこうある。
彼女には怖いと言われるくらい。
数年前の彼女の同僚の名前を覚えていたりなんかして気味悪がられる。
なぜ覚えているのか。
それは、思い返すから。
会話の内容を後で思い返しているから、思い出しやすくなるのだ。
それに気づいてからは、自分が覚えているということを知られるのが恥ずかしくなった。
相手が忘れていて私が覚えているなんて、片思いがバレてしまったような気恥ずかしさがある。
地元の同級生のことは、思い返さない。
本当に仲の良かった子とのエピソードを思い出すことはあるけれど、
大多数の人のことは思い返さない。
担任の名前も、忘れている先生の方が多い。
小学2年~5年に至っては、顔も思い出せない(今、驚いた)
誰がどこに住んでいるのか、誰がどんな仕事をしているのか、誰と誰が親戚なのか、町のどこにどんな建物があるのか、35年経ってもあまりわかっていない。
さすがにこの年になると、問題だと感じている。
今日会った同級生は、中学校でのことは一切覚えていなくて、小学校の頃、少し大人びてクールだった印象があったのを覚えているのだけど、
ものすごく明るくなっているというか、相槌上手になっているというか、「わ~~~素敵~~~♪」というテンションで、全くの別人なのだった。
私からしたらギャラリーで会う人全てが初対面なのだが、私の素性を知っている人がそこここにいるという状況。
帰り道でも、別の同級生のお母さんにバッタリ会ったけど、母がいなかったら絶対に気づくことのない人。
不思議とすごく疲れた。
日頃は、「人の評価なんて千差万別なんだから、気にしていたらキリがない。全員から好かれるなんてことはできないんだから、自分の思うようにするのが1番」と思っているし、美容院で受けたストレス診断で、「こんなにストレスのない人ははじめて。問題は生活習慣ですね」と言われたこともあるくらいにのびのびと生きているつもりだったけれど、普段、身内の世界か、1人の世界でのびのびして、仕事のときは仕事モードで割り切ってやっているのだなと思った。
身内・仕事関係の人、見ず知らずの人、が私が意識して関わる人たち。
見ず知らずの人の中には、会ったことこそないけれど、ファンだったり尊敬していたり、はたまた嫌いだったりする有名人なんかがいて、身近に感じていたりするのだ。
身内でもなく、見ず知らずでもない他人と仲良く楽しくやれる人は、私の母のようにごく普通にいるのだろうけど、私はなぜか疲れてしまうのだなと思った次第。
もしかして、結婚していないとか、子どもがいないとか、それこそ「世間体」のことが関係しているのかもしれないなぁ。
十分あり得ることだけれど、世間に合わせて生きるわけにもいくまい。
私がわりとのびのびできているのは、私の精神コントロール力が優れているわけではなくて、私が「世間」を避けてやり過ごしているだけなのかもしれないのでした。