「私」は、ただ「反応」しているだけ。

アラフォー独身女子(彼女はいます)。「人生これでいいのか?」と思いながらも、「毎日楽しく暮らす」のが1番の望み。

宝塚初心者のとりとめない会話② ~歌について~

 

 

 

12月22日(土)私の部屋にて

 


K:ねえ、キキちゃんのルドルフの歌聴いて。歌がちょっと残念かなって思うんやけど(※宙組のライブビューイング後は、2人ともキキちゃんの歌・演技・オーラetc大絶賛でした。)

 

私:レンタルのやつ?

 

K:そう。期限あと30分くらいやし。

 

私:なんでそんなギリギリなん。

 

K:数分だけやし聴いてみて。

 

私:・・・(聴く)・・・。しっかり歌ってると思うけど。これじゃダメなん?

 

K:んーーーー・・・。

 

私:っていうか私、最近、耳がやさしい耳になってて。

 

K:ダメやん(笑)

 

私:うん、そう。慣れたらダメやなとは思ってるけど。

 

私:もっかいちゃんと聴くわ。・・・(聴く)・・・。えっと、トートのみりお君の方が上手いと思う。

 

K:うん。みりおの方が上手い(※キキちゃんファンなので悔しそう)

 

私:キキちゃんとみりお君の何が違うかって言うと、声に艶があるかどうかかなって思う。


K:うん。

 

私:キキちゃんは、低音を出すために胸に響かせてて、それは当然そうなるとは思うんやけど、口の中とか、頭とか、引き上げる力?みたいなのが足りてないからバランスがとれないんだと思う。本来ゴムみたいな感じが理想なんだと思うけど。

 

K:?

 

私:上か下かどっちかだけへの方向の力だと、ゴムって伸びないよね?常に上下どちらへも意識がいってないとダメっていうか。

 

K:わかるようなわからないような。

 

私:声楽のレッスンって、面白い例えの連続やしね。ゴムの例えは、私が考えたんじゃなくて、声楽の先生に教えてもらったことだし。足の裏から息吸ってとか、目の裏を開けてとかはよく聞くよね?あと、発声練習もすっごく面白いよね。

 

K:そうなん?

 

私:お花様(花總まり)は、「ニャニャニャニャ」って猫みたいにするって言ってた。「徹子の部屋」で。

 

K:おもしろいね。

 

私:私はゆる~いグループレッスン数年とマンツーマンのレッスンは1年くらいしかしたことないけど、やるのがまず恥ずかしいっていう壁があって。「んげ~~~」って歌ったり、歌いながら顎を左右に動かしたり。顎を左右に動かすと首の緊張がとれて声がすごく出るよ。もちろん、動かしながら本番歌うわけにはいかないけど、脱力の感覚がつかめる。でも恥ずかしい!

 

K:慣れ?

 

私:近所に芸大卒の声楽家の人がいて、その人が発声練習するときに一緒の部屋にいたことあるんやけど、まあやっぱりすごい変で(笑)、でも慣れてるだろうしって思ってたら、突然「やっぱり恥ずかしー!」って言ってたから、恥ずかしがる人も珍しくはないんじゃない?


K:ヅカファンブログとか読んでると、歌が下手とかはっきり書く人もけっこういるよね?

 

私:でも理由は書かれてないこと多いよね?

 

K:一刀両断。

 

私:褒めるときはそれでいいと思うけど、否定的な意見のときは詳しく知りたいよね。私の数ある座右の銘のうちの1つが「責難(せきなん)は成事(せいじ)にあらず」やから。

 

K:どういうこと?

 

私:「責めたり非難することは、何かを成すことではない」っていう意味。『十二国記』っていう小説の中の言葉。BSでアニメもやってたよ。

 

K:いいねぇ。

 

私:20代前半くらいのときに読んで、私その頃、批判と呼べないレベルの批判しまくってたから(笑)、この言葉はすっごく刺さったわ。ねえ、歌のこともっと語っちゃってもいい?

 

K:好きにおやり。

 

私:Kって、ちゃんと話聞いてないよね。あと覚えてない。

 

K:突然怒られる(笑)


私:付き合いはじめの頃、私が一生懸命しゃべった後にさあ、「よーしゃべるなぁ、ヒャッヒャッヒャ」ってよく笑ってたよね。

 

K:あと、何回でも同じ話を同じ熱量でしゃべってくる!

 

私:才能です(笑)さいしょの頃は私が気づいてないと思って、おとなしく聞いてくれてたんやよね。私、いつ誰に何を話したかけっこう覚えてるから。

 

K:わかってたって知った時の驚き(笑)

 

私:じゃあ、続きね。

 

K:はい。

 

私:宝塚の人の歌い方で、特に男役の人の歌い方で、下手だなって感じるときの原因って、口の中の空間の作り方に問題があるのかなって思うことが多い。声帯の位置も関係あるんだろうと思うけど。響きがないと、効率よく遠くへ音を届けられないから。口をちょっと開けて、手で唇をポンポンってして、鼓(つづみ)みたいに響かせるってわかる?響くように口の中を調整するの。これも恥ずかしいけど。

 

K:なんとなく。

 

私:前に、歌が上手くないって困ってた人がいて、私も素人だから、あーでもないこーでもないって工夫したことがあって。その人の声に響きがなくてどうしたものかと考えて、これを思いついてやってもらったら、声に艶がでたことがあって。たった1人の事例ではあるけど。

 

K:へー。

 

私:拍手も、響く人と響かない人いるよね?掌をかるく丸めてずらして空間を作るかつくらないかの違いだと思うけど。空間作り大切。

 

K:なるほどね。

 

私:で、他にもいろいろ工夫したんやけど。子音を言う瞬間にすでに良いモードに入れるかが決まるとか、母音の最後まで気を抜かずに響きを保つ意識を持ち続けるとか。けっこうちょっとしたコツの部分も大きいと思う。鼻濁音ってわかる?

 

K:うん。

 

私:「わたし」っていう前に小さく「う」っていれるとか、「が」の前に小さく「ん」って入れるとか。ポップスとかだとバランスが難しいけど、宝塚の人が歌うポップスってなんとなく本当の素で歌ってしまってる人が多い気がする。

 

K:クラシックっぽく歌うと変やしね。

 

私:そう。難しいと思うけど。でも、私が言ったことって、基本的なことだと思うから、プロの人にとっては。普段姿勢が悪い人が姿勢を正すと頑張ってるって感じると思うけど、姿勢を保つために使う筋肉って、当たり前のレベルなわけで。わかる?

 

K:わかるようなわからないような。

 

私:ね(笑)。そして、口の中とか声帯の位置とかがきちっと決まってないと、ホースで水やりするときにさあ、

 

K:また例え?

 

私:そう、また(笑)。先にシャワーヘッドのついていないただのホースで水やりするときに、先をしっかり固定してないと方向が定まらないし、勢いも分散されちゃうよね?そんな感じで、安定して息を勢いよく送れるかどうかが、肺活量とは関係ないところにもポイントがあると思うってこと。口の中とか頭の裏(?)を引き上げるときに背筋もいると思うんだけど、決めるべきところが決まってないと、息を安心して勢いよく送れないし。そして不思議と息も溜めておけないし。いろいろな要素が繋がっているんだと思う。

 

K:わかるようなわからないような。

 

私:うん(笑)。でもコツって本当に大切だと思う。やみくもに練習してもしょうがない。歌に限らず何でもそうだと思うけど。でも、例えば腰に息を入れる(実際には横隔膜をしっかり下げて息を入れるってことだけど)なんていうのは、コツもあると思うけど、努力の部分が大きい気がする。できないからわかんないけど。

 

K:できないんかい(笑)

 

私:できない!(笑)寝転がって、足を頭の上にガラケーみたいに折りたたんで息すると腰に息が入るのがわかるよ。立ったらできないけど(笑)

 

K:ほー。

 

私:で、私が何を言いたいかって言うと。

 

K:はいどうぞ。

 

私:宝塚って、けっこう下手だなと思う歌に出会うことあるよね?でも、ジェンヌさんたちは、皆さん本当に努力努力の人たちだから、私はジェンヌさんたちの努力が足りないなんて全然思わなくって。

 

K:ものすごく努力するよね。

 

私:そう!撮影の衣装とか自前が多いみたいだったり、本番の衣装でさえ手作り部分があったり、お化粧とか、何から何まで心配りもすごいし。

 

K:めっちゃくちゃ忙しそうやよね。

 

私:それだけ努力できる人たちなのに、成長に差があるのは不思議なことじゃないとはいえ、人それぞれ歌唱法が違いすぎたり、1人の人の中でも、曲によって歌唱法にブレがあったり(意図したものじゃなくて、無意識に切り替わっちゃってる感じ)。教育どうなってるの?って思って。なんかもう親の目線ていうか、うちの子の教育ちゃんとしてくださってます?みたいな。

 

K:モンスターペアレント・・・(笑)

 

私:笑。『この恋は雲の涯まで』のときの一路さん、当時中学生の私からしても、声が出しずらそうって思ってて。

 

K:杜けあきがトップのとき?

 

私:そう。でもその後はエリザとか東宝出演したりとかしてすごいけど、だいぶ後のインタビューで、海外で発声を習いなおして、そのときにこのままの発声法じゃ喉を潰すって言われたとか確か言ってたから※、そこで変わったんだよね、きっと。あと、柚希礼音(たぶん)のドキュメンタリーを観たことがあって、宝塚の歌の先生が海外の最新の歌唱法を身に着けて帰ってきてそれを教えてもらうみたいな場面があったんだけど、その教育って下級生にまで広く届いてるのかとか気になるよね。個人の努力に頼りすぎなんじゃない?って。

 

 

K:宝塚にメール出しなよ(笑)

 

私:いや(笑)

 

 

 

歌の話、まだつづきます・・・

 

※調べてみたら、一路さんがロンドンで発声法を学んだ時のことが語られているインタビュー記事がありました→ 一路真輝 女優 | 毎日新聞出版

 

 

 

 

宝塚初心者のとりとめない会話①

 

 

この連休、土曜日から月曜日にかけて、彼女が泊まりに来て、彼女がレンタルした動画を観たり、私が録画しておいたスカステを観たり、宙組のライブビューイングへ行ったりと、宝塚三昧の2泊3日でした。

 

会話の9割が宝塚、残りは文鳥の話など。
怖いくらいに宝塚の話をしつづける私たち。


宝塚歴2ヶ月ないくらいの超初心者が、少ないネタと浅い知識で延々としゃべりつづける。
端から見ると地獄のような光景かもしれない(笑)

 


杉浦日向子の漫画『百物語』の中に、『地獄に呑まれた話』(其ノ四十一)という話がある。

 

煮えている池があり、池の中はそれほど熱くなく心地良いけれど、1度池に浸かった部分を池から出してしまうと途端に燃えるように熱くなってしまい、最後には全身池に浸かったままになってしまうという恐ろしい話。

 

浸かっている本人は幸せそうだというのが、なんだか今の私と彼女に重なる。


馬鹿らしくも楽しい彼女との会話を残しておきたいと思うけれど、読む人にとってはたして価値はあるのか。

 

宝塚歴が長い人にとっては本当に役に立たないだろうけど、初心者の人にとっては、なんとなく共感してもらえるかもと思ってみたり。


宝塚って詳しい知識がないと楽しめないんじゃないのかと敷居が高いと感じている人にとっては、右も左もわからなくっても楽しめるのだと思っていただければ。

 

など、無理矢理考えてみるものの、意義なんてどこにも見当たらないね・・・ということは重々承知の上で書かせていただきたい。

需要は不明だけど、せっせと供給。

 


というわけで、くだらなそうだけど読んでやってもいいかと思ってくださる奇特な方、優しい方は、お付き合いいただけると嬉しいです。

 


ではどうぞーーー・・・

 

※どうでもいいことかと思いますが、多少編集(?)してあります。でないと話が前後したり、同じ話題が数日にわたっていたり、同じ話が5回くらい余裕で出てきたり10回以上もありますので・・・。

 

 


12月22日(土)スーパー銭湯にて。

(「スーパー銭湯」といえば、『カンパニー』のみやるり演じる高野悠を思い出してしまう。「スーパー銭湯」さえときめきワードに変えてしまうるりか様・・・)

 

 

私:K(彼女)と私って、初心者同士でめちゃ話合うよね。

 

彼女(以下K):そうやね。

 

私:そしてさあ、初心者の度合いも合ってるっていうか。このまえ、宝塚全く観たことない人と話したんやけどさあ、お芝居とショーが別ものってとこから知らなくて、そこから!?ってびっくりしたわ。なんか大階段がお芝居の中に出てくるって思ってたみたい。

 

K:どんなお芝居よそれ。

 

私:Kも私も一応は前にちょっとは観たことあるやん?そこも合っててよかったよね。

 

K:シメさん(紫苑ゆう)とか、ずんこ(姿月あさと)とか(笑)

 

私:シメさん!Kは初期のエリザとかそんな感じやったっけ?

 

K:そう。妹がけっこう好きで観てたからその影響で。

 

私:私は『この恋は雲の涯まで』と『Le Paradis!!(ル パラディ )』と、退団後のタカハナコンビ。あとは「ベルばら」と「エリザ」のレビューくらい。もともとの知識量が同じくらいで良かったわ。ファッションとか仕事とか全然違っていろいろと合わないことの方が多いのにね。

 

K:全然違うね。出かけたとき、どんな繋がりの2人なんやろうって思われがち。

 

私:そうそう。Kはカジュアルで、私はコンサバ系やしね。っていうかたまにマダムみたいになってるときさえあるしね(笑)マダムとジーパン。宝塚の娘役さんのファッションとか世間とはちょっとズレてる感じやけど、すごい参考になってありがたいわ。年齢は合わないわけやけど。


K:そしてさあ、全然違う雰囲気の2人なのに、お互い全く遠慮がなくて気を使わない空気やからお店の人が不思議に思ってるのが伝わってくるよね。

 

私:でも顔の系統も身長もまったく違って姉妹って感じでもないし。

 

K:飲食店でもあまり会話なかったりして。バーであんまりにも話題なくてしりとりしたことあったよね?

 

私:うん、でもめっちゃ盛り上がったよね(笑)縛りありのしりとり。あの後Kがしりとりしようしようって言ってきて困ったわ(笑)今は宝塚の話があってよかったね。

 

K:ほんとやね。


私:でも話すこといっぱいで食事に集中できないわ。Kと食事に行くと味に集中できて、私の美味しいもの食べるときのベスト相手がKやったのに。


K:それいっつも言うよね。悲しい・・・。

 

私:褒めてるから(笑)。でさあ、宝塚にまだまだ知らない人いっぱいいるとはいえ、ちょっとずつ知ってる人増えてきてるやん?怖くない?どこまで広がっていくのかって。

 

K:怖いよ!(笑)最初は、たまきち(珠城りょう)と、みやるり(美弥るりか)と、月城かなとと、ちゃぴ(愛希れいか)とヤギと(真風涼帆 ※私の第一印象が優しいヤギだったので2人の間でだけヤギと呼んでいます・・・)、コアラ(星風まどか ※真風さんが動物に例えるならという質問にコアラと答えていたので。ちなみに星風さんは、真風さんのことを豹(ヒョウ)と例えていたのではなかったかと思います。ものすごく悩んだそうですが)くらいやったのに。


私:Kは「すごろく」の動画で知ってる人増えたよね。

 

K:キキちゃん(芹香斗亜)のこと好きになったしね。あと愛ちゃんも(愛月ひかる)

 

私:私も「すごろく」のキキちゃん大好き。めっちゃ調子に乗ってたね。

 

K:真風さんもはしゃいでた。すっごい楽しそうやった。

 

私:うん。愛ちゃんのおもしろ動画、もう1回観るから静かにしてって言ってたね。

 

K:あの動画よかったわー。

 

私:ニコ動のコメントで、何回も観ちゃうって書いてた人いたけど、わかるよね!

 

K:うん、わかる!何回でも観れるわ。

 

私:ほんとどーしようもないね(笑)。私、みやるり特集みるためにスカステに入ったやん?そしたらさあ、その特集、ゲストがたくさんいて、どんどんみんなのこと好きになるんやけど。


K:宝塚の思う壺やな(笑)

 

私:あっ!ほんとや!そういうことかー。その番組、すっごい下級生とかも登場するんやけど、そういうことかー・・・。

 

K:仕掛けられた罠にまんまと(笑)

 

私:まあ、楽しくハマってるわけやけど。なんか、朝美?っていう人がいて、名前がちょっとわかんないけど、アーサーって呼ばれてるらしくて、みやるりの特集に何回も登場して気になってたんやけど、その人の新公(新人公演)、スカステつけたらやってて、途中から録画したりして。

 

K:無限やね。

 

私:うん、無限。それ、プロムの話で。

 

K:N(=私)、プロムめっちゃ好きやん?

 

私:そう。アメリカの女子高生ドラマといえばプロム。スクールカースト話を楽しむ下世話なやつ。大好き(笑)。名作になるわけがない感じのテーマやけど。でもチャンスがあったらちゃんと最初から録りたいわ。

 

K:好きにしなよ。アーサーの名前、絢(じゅん)みたいやよ。

 

私:わりとそのままでよかったんやね。宝塚の人ってまずなんて読むの?ってなるから、顔と字面だけでなんとなく覚えてる人が多くて認識しにくい。私もともと宝塚に限らず字面だけで認識してること多いから。「レミオロメン」ってはじめて口に出したときのドキドキ忘れられないわ(笑)一か八かで言ってみたら無事言えたけど。

 

K:宝塚はなんて読むかわからない人ばっかりやよね。困るわ。

 

私:『ホンマでっか!?TV』で、人は頭を使いたくなくてできるだけ省エネを好むから、読みやすい名前の人の方が売れやすいって言ってたよ。そういえば、蕗谷虹児より竹久夢二の方が有名なのは、名前が読みやすいからだっていう意見を読んだことあるよ。私だって、母親の地元の人じゃなかったら蕗谷虹児のこと知らなかったと思うし。営業的にどうなの?って思うけど、宝塚まったくそんなの関係ないよね。


K:愛称もあるしね。

 

私:覚えることたくさんある。そして、まだ圧倒的に知らない人の方が多いよね。

 

K:これ、どこまで続いていくの?ってなるよね。

 

私:ねえ、かれこれ3時間ちょっとここにいるよ。

 

K:宝塚のことだけを喋りつづけて(笑)

 

私:こんなに長居したこと今までなかったよね?こわいこわい。

 

K:まだなんにも動画みてない。

 

私:いっぱいあるよ(笑)

 

K:あー楽しみ!

 

私:うん(笑)、早く帰ろ。

 

 


つづく・・・

 

 

 

「断捨離」してもしなくても、「生きていくこと」は「増えつづけること」

 

 

 今日、知り合いの70歳の方が、私の仕事場に飾ってあるクリスマスグッズの数々を見て、素敵だと褒めてくださった言葉に続けて、「私もこういうの大好きだけど、断捨離しないと」とおっしゃった。

「私はいいと思っているものでも、残された人にとっては価値がないだろうから」と。


私は、力強く「断捨離流行ってますけど、ずっと好きなものに囲まれたままでいいと思います!」と伝えた。


「あなたはまだ若いから大丈夫」と言われてしまったけれど、若いと言っても不惑。
よくわからないけど、断捨離対象年齢には余裕で入っているのではないだろうか。

 

その方とはその後、クリスマスだけでなくお正月の飾り付けのことにまで話がふくらんだ。

 

 

断捨離と一口に言っても、厳しいものから緩いものまで幅があると思うけれど、思い出の写真まで処分してしまうようなのは、なんだか切なくなってしまう。

 

断捨離という言葉が生まれる前、私が大学生の頃だから、20年も前でも、そんなことが書いてある片づけ本を読んだことがある。


自分の大切な品を、他人には価値がないからといって、何故に手放さなければならないのだろうか。

本当にどーでもいい写真だと本人が思うのなら全然かまわないのだけど、残された人が困るだろうからという理由だと、それは生きている人が負うべき仕事でいいのではないかなと思ってしまう。

 

あと、センスのない人が飾ってもうまくいかないから、何も飾らずシンプルにすっきりした方が印象が良いという意見の本を読んだこともある。

飾るのが嫌いならばそれでいいけれど、飾りたい気持ちを抑える必要なんてあるのだろうか。自分の家なのに。

 

 

 こうやって書いていると、整理整頓に興味がないように思われるかもしれないけれど、整理整頓は大好きで、彼女とはじめて出会ったときに、「休みの日は何してる?」という定番の質問に、「整理整頓!」と答え、その当時に知ったばかりの「70%収納」について熱く語ったほど。


彼女と付き合いはじめて自分の部屋にいる時間が減ったときに、「私は息をするように整理整頓すると思っていたけど、整理整頓しないと息ができなくなるのだ」と知った。


買ったばかりのものでも気に入らなければすぐに処分するし、買うときにはどこに置くのか、仕舞うのかということは自然に考える。

 

友人知人からはよく、私へのプレゼントを選ぶのが難しいと言われる。
「それ大切なんでしょう?(自分にはよくわからないけれど)」ともわりと言われてしまう。


物の置き場所もガチガチではないけれど決まっていて、物がみつからないときには、ここを探してもみつからないなら後は運に任せるしかないと絶望的になるくらい。

 

適当に仕舞うことは嫌いなので、未処理の書類や収納場所が決まらないものなどは、あえて出しっぱなしにしている。

見た目が整っていることよりも、頭の中がすっきりしていることが最優先。

 

 


今では生活に直接必要のないものでも潤いを求めて積極的に買う私にも、何も持たずにダンボール1箱分くらいの物で暮らしたいと思っていた時期がある。
中高生くらいの頃。

 

そして、大学生の頃には、物に執着せず、思い入れなくいつでも身軽にしていたいという理想があった。


その根底には、失うことの恐怖があったと自分では分析しているけれど、だんだんと、先のことはわからないけれど「今」を大切にしたいと思えるようになった。

 

意に反して失うときが来たとしても、それまで過ごしてきた幸せは失われない。

そう思えるようになった頃から少しずつ、本当に少しずつ、失敗もしながら(今でも・・・)、自分にとって快適な居場所を作ってきた。

 

 


自分が必要ないと思うもの、気に入らないものはどんどん処分したらいいと思う。

それは、マイナスを「0」にするようなもの。

 

でも、「0」よりも「1」でも「2」でもプラスを目指したい。


無難で誰からも嫌いとは言われないような(そんなものは存在しないけれど)ものを選んでも、結局は「0」なのだ。
邪魔ではないけれど、好きにもなれない。


いらないものがゴチャゴチャしているのは不快この上ないけれど、好きなものがゴチャゴチャしていたとしても、それは宝の山のようなもの。

宝箱から溢れ出る金貨宝石を見て、ゴチャゴチャしていて不快だなんて思う人はあまりいないのではないだろうか。

 

 

そうやって少しずつ積み重ねてきたものを、自分の死後のことを考えて早々に手放すなんて、または最初から手に入れようとしないなんて、生きている楽しみが大きく減ってしまうと思う。


去ってゆく準備なんてしなくていい。
(遺産的なことなどについては、残す人に伝えておいた方が親切だと思うけれど)

 


そして、整理整頓して心地良いならすればいいけれど、整理整頓する時間があったらどんどん前に進みたい人だっているだろう。

 

実は、そういう人に憧れる。
チマチマと私は一体何に時間を費やしているのかと思うけれど、性分なのだろう仕方がない。

 

要るものと要らないものを見極めて、愛するものたちと過ごしたい。
最後の最後まで。

 

 


えっと。
またしても、引用させていただきたい言葉があるのですが。
『悲しみの時計少女』という作品からの言葉です。


私のブログは異様に引用率が高いですが、私の考えはさまざまな作品や人のおかげで作られていて、どうやら私はそれをずっと忘れずにいたいと思うタイプのようです。

※一応、これは自分で考えついたと思うこともあって(もちろん世界初とかではないでしょうが)、「良いことも、悪いことも、次々にやってくる。」なんかはそうです。


そして、その意見を私が1人で考え出した意見かのように伝えるのが気が引けるのです。

それを全部書いていると収拾がつかなくなるので、グッと堪えることもしばしばですが、できるだけオリジナルの素晴らしさを知っていただきたいと思って、いろいろと引用させていただいています。

 


長々と前置きしてしまいましたが、これまで、断捨離と『悲しみの時計少女』を結びつけて考えることはありませんでしたが、書いていてふと繋がりました。

 

ああ、私が言いたいことはこれだ、と。
この素晴らしい作品が、自分の中で気づかないうちに根づいていたことが嬉しいです。

 


では、以下引用です(ネタバレあります)。

 

 


時計少女(以下、少女):その時計は、不良品ですわ。減っていく砂時計なんて、不良品もいいとこです。きっと、製作者が生きることは減っていくことだ、と思っていたために、そんな過ちを犯したのでしょう。

 

谷山浩子(以下、浩子):どこがどう間違いだっていうの?

 

少女:砂時計は減っていくものじゃなくて、増えていくものですわ。

 

浩子:かたっぽが減って、かたっぽが増えるから砂時計なんじゃないの?

 

少女:いいえ。かたっぽが増えて、もうかたっぽも増えるのです。上で増えるのは、空間。下で増えるのは、砂。

 

浩子:それなら、上で砂が減って、下で空間が減るっていう言い方だってできるでしょう?

 

少女:そう、それが、ここにあるこの砂時計です。あきらかに不良品です。製作者に教えてやらなくてはいけませんわ。生きることは減っていくことじゃなくて、増えていくことです。増えて増えて、いっぱいにたまったところで、人生が終わるのです。

 

(ラジオドラマ 青春アドベンチャー『悲しみの時計少女』第5回より引用)  

 

 


物を持つことだけが豊かさではもちろんなく、物を持たないことで得られる豊かさもある。

 

物をたくさん持っているからといって愚かでもないし、物を持たないからといって悟りを開いて偉いわけでもない。


持っても持たなくても、最後の最後まで豊かに生きていきたい。
そんな風に思っています。

 

 

『金色の砂漠』~ この作品は、単純に理解したくない ~

 

 

 

宝塚スカイステージで放送されていた『金色の砂漠』を昨夜観たら、しくしく泣いて眠れなくなってしまった。


いつもは悲劇の後でも楽しめるお芝居後のショーも、心ここにあらず。

さよならショーがはじまり、気持ちがいよいよ切り替えられないので寝ることにしたものの、眠れず。

 

ホットワインを飲んでベッドに入るも、すぐに起き上がってアレコレと考えてしまう。

どうしようもないので、さらにウイスキーのお湯割りを飲んでようやく眠りについた。

 


一夜明けて、昨夜混乱の中で考えたことを記しておきたい。

 

 

まず、私はどうやら宝塚にいろいろと偏見があるらしく、宝塚のお芝居でこんなにも泣いてしまうということに驚いた(私にとっては初のウエクミ先生のお芝居なので、その可能性もあるのかなとは思いつつ)。


過去、歌舞伎に対しても同じようなことがあって、『刺青奇偶(いれずみちょうはん)』を観たときに嗚咽するくらい泣いてしまい、そのときは1人じゃなく歌舞伎座だったのですごく困ったという思い出がある。


私は、宝塚も歌舞伎も、お目当ての人や様式美が最優先で、宝塚ならお芝居よりレビューが、歌舞伎なら舞踊ものが好きというところも共通している。


油断できないなぁ・・・

というのはさておき。

 

 

『金色の砂漠』


序盤から主役2人の感情が複雑で、これは「文学的」な物語なのでは?と感じたが、その印象のまま幕となった。

 


「文学的」の定義とは?

 

私は日ごろ「文学的ではない」物語を好んでいるという自覚があるのだけれど。

 

文学的ではない=ご都合主義

 

文学作品にあまり接していない私が参考にできる例が少ないので説得力にかけるとは思うけれど、パッと思い浮かんだのは、トルストイの『戦争と平和』と、カズオイシグロの『わたしを離さないで』。

 


『戦争と平和』は、BSのドラマで観た。

 

主人公とその妻の浮気相手が決闘して、浮気相手が重症を負いそのまま別れて数年後、その2人が野戦病院で再会した時には手を取り合って喜んでいたシーンに、人の心の複雑さがそのまま表現されていて、もちろん言葉で説明しようとすればある程度できるのだけど、言葉にしたら切り捨てられてしまう部分も全部ひっくるめて表現するために文学があるのだと思った。


『わたしを離さないで』は、カズオイシグロ自身がインタビューで語っていた、この作品を書く動機がポジティブだったことに惹かれて読んでみた。

 

ポジティブなテーマは確かに読み取ることはできたけれど、さまざまな感情が去来して、読後はこれまで味わったことのない感覚だった。
このときほど静かに1筋だけ涙が流れたことはなく、本当に不思議な読後感だった。

 

 

ギィとタルハーミネの感情を、生い立ちに翻弄され、愛と矜りの狭間で愛憎入り混じるものと言ってしまえばそれまでなのかもしれないけれど、それでは零れ落ちてしまうものがあまりにも多くて、言葉にして切り取るべきではないと感じた。


普段は現実世界の複雑さを生きるために多分に言葉に頼っていて、それだからこそ、私はフィクションでは単純さを愛するのだと思うけれど、この作品は安易に単純化せずに複雑なままにまるごと引き受けなければならないと思った。

 

 

王族に女の子が生まれたら男の、男の子が生まれたら女の奴隷をつけるという不思議な「しきたり」の理由が不明だという設定も、ご都合主義だとは思わなかった。


現実にも、今となっては理由もわからないし、わかったところで納得しずらい「しきたり」が古今東西珍しくなく存在する。
私たちは、理路整然となんて全くしていない世界に生きているのだから。

 

全てにきちんとした理由がある方がフィクションなのだ。

 

 

舞台は隅から隅まで完璧に美しくて別世界だったけれど、ギィとタルハーミネの感情はとてもリアリスティックで、受け止めるのにエネルギーが要った。

 

それでも、少しの疲労感とともに、この作品に出会えた幸せを噛みしめている。

 

 

私の思いにぴったりの言葉があるので、それを最後に。

 

 

 

愛だったかなんて 

 

誰もわからない 

 

教えてほしくない

 

 

(作詞:覚和歌子 『わが麗しき恋物語』より引用)

 

 

 

 

ブログをはじめて1ヶ月 ~ 「お蝶夫人」と「加藤はいね」の言葉を胸に ~

 

 ブログをはじめて1ヶ月。

 

ふわっとはじめただけに、一体どこに向かおうとしているのだろうか?と思いながら、
1つ書いてはまた次を書き、を繰り返してやっと16記事となりました。

 


お蝶夫人の言葉がよぎります。

 

勝とうとすることなどなくてよ。

「この1球」!、つねにそれだけでよろしいのよ!

 

 (山本 鈴美香 著『エースをねらえ!』より引用)

 


ひろみには試合に勝つという目標がありますが、私は一体何を目標に?と思いつつも、そんな感じで1つ1つ書いています。

 

動機は、「言いたい」ただそれだけなのですが、
「誰に?」というところもまたぼんやりとしています。

 

ただ、女性を対象にしているということは、まず間違いありません。

 

グーグルアナリティクスで、訪れたユーザーの55%くらいが男性だというグラフを見たときの驚き。
男性に読まれることを1ミリも想像していませんでした。

 

なんとなく、自分と同じような人を求めているのでしょう。

 

 

そして、期待していたグーグルアナリティクス先生。

 

教えを請う気満々だったのですが、先生は大学教授レベルだったのですね・・・。
小学1年生レベルの私には、何言ってるかさっぱり。


わからないことを調べてみても、結局は一概には言えないということがわかりました。

 

直帰率は必ずしも気にしなくていいとか。
ダイレクトは、必ずしもお気に入りから来ているわけではないとか。

 

一概には言えないものを研究分析して答えを導き出す。
大学院レベルじゃないですか(行ったことないけど)。

 

あと、自分のアクセスを除外すらできませんでした・・・。

 

できたと思っても次の日からはまたダメになってしまう。
ポケットWi-Fiのせいらしいけれど、解決策をネット上で探せず(というか書かれていた対策では解決せず)。

 

というわけで、アナリティクス先生からの叱咤激励も受け取れず。

 

 

あと、不思議だなと思ったことがありまして、
ブログ運営についてのブログを読むと、なぜかやる気なくなりますね。

 

仕事として考えている人向けだからでしょうか。
なんだか大変そう。

 

それぞれ違うサイトなのに、みーーーーんな同じ人?って思うくらいのデジャヴ感。
突っ込み系、暴言系、自虐的系、丁寧系、気さく系など表現方法さまざまにも関わらず、その話さっきも聞きましたけど感がすごい。

 

みんなと同じ意見でも発表していただいて全然いいのですが、役立つ系の難しさを見た気がします。


これがヅカファンブログとか文鳥ブログなら、好きなものってただひたすら浸っていたいので、同じ話でも大歓迎。
文鳥なんて、「今日もとってもいい子でした!」の報告を満面の笑みで読めるわけで・・・。

 

 

話が逸れてしまいましたが、とりあえずは深く考えず楽しんで続けられたらと思っています。

 

この1ヶ月はなかなかにブログに時間をとられましたが、グーグルアナリティクス先生に師事することを諦めたので、もうちょっと楽になるでしょうし。

 

そして、ブログをはじめた分、何の時間が減ったかというと、楽天やメルカリを見る時間が減っただけなので・・・、それならブログやってた方がいいですし。

 

 

最後に、私の理想とする文章について、非常によく表現している、大人気ブロガー加藤はいねの裏アカ(一応)の文章を引用させていただきます。


というか、これを読んだことによって、自分の理想が見えた気がしました。
すごい文章ってそうですよね。
自分が言葉にできていなかったことを、言葉にして気づかせてくれる。

 

 

そういえば、最近「加藤のブログは地味だ。もっと初めて来た人を引きつけるような派手さがあれば、人が集まるよ」と助言を頂きました。

 

ごめん、ほんとはもっともっと地味にしたい。


例えば私が映画やドラマを作れって言われたら、言われないけど、万が一、なんかの間違いでメガホン渡されたとしたら、インパクトとかね、多分大事にする。

 

でも文章でインパクトを出したいとは思わないのですよ。


えっと、本とか読む?

 

私も一年に一冊くらい運が良ければ読むんだけど、本って一文だけ楽しめても駄目で、本を閉じたときに、ああこれおもしろかった良かった・・って思わないと駄目で、
んじゃ、私は、文章ってそういうものだと思う。

 

確かに前に出したいフォワードな一文もあれば、どっちかっつーと守りの要みたいな一文もあるけど、そういうのがうまく流れて一つのもんになればいいと思うし、全部の段落一丸となってのチームプレーが好きです。

 

だから、まあ、ここ一点で攻めてくようなテクニック、例えば文字の拡大だとか色付け装飾なんかはせず、舌に乗せたときのリズム感やまとまりだけを結構意識して書いてます。

 

 

(『挿管するも食道なり』2006年 02月 15日 「校長先生の挨拶」より引用    https://otosata0.exblog.jp/m2006-02-01/

 

 


自分のブログは自分が1番面白く読んでいるとは思うけれど(なにしろ趣味嗜好・興味が完全一致ですから)、
いつか自信作みたいなものが書けたらいいなと夢見ています。

 

理想は高く。
精進精進。

 

正味のところどのくらいの方が読んでくださっているのかわからないのですが、それでもアクセスがあるととても励みになりますし、コメントをくださった方、登録してくださった方、スターをつけてくださった方、バナーをクリックしてくださった方には本当に感謝しています。

 

今後ともまたどうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

『キャッツ』の結末は、非道いと思う。

 

 

※ネタバレ大いにあります。

 

 


『キャッツ』

 

観たことはなくても、タイトルを知らない人はいないくらい有名なミュージカル作品。

 

ずっと観たことがなくて、猫がたくさん出てきて楽しそうなイメージがぼんやりとあった。

 

『キャッツ』を観たきっかけは、劇中歌の『メモリー』を歌いたいと知り合いからピアノ伴奏を頼まれたことだった。
伴奏は苦手で、アンサンブルを楽しむ気持ちよりも、迷惑をかけてはいけないというプレッシャーを感じてしまう。

真面目に取り組まねばと、DVDを購入し観てみた。

 


予備知識なく観たので、「ジェリクルキャッツって?」、「っていうか、ストーリーは?」と戸惑った。


とにかくジェリクルジェリクル言ってる。

 


ジェリクルキャッツとは、人間に飼い慣らされることを拒んで生きる猫たちだとのこと。

 

ストーリーは、ジェリクルキャッツの中から、生まれ変わることを許される1匹の猫が選ばれるという大筋があるものの、ジェリクルキャッツが一匹ずつパフォーマンスを披露するショー的な感じ。

 

 

観終わっての率直な感想は、

 

えーーーーーーーーーーー?!
納得いかないんですけどーーーーーーーーー!!!


これが未だに再演され続けているのか・・・


でした。

 

※『メモリー』は文句なく素晴らしい名曲です!
 また、各シーンの芸術性も本当に素晴らしいと思います。

 

 


大人気作品に物申すのは本当に気が引けるというか怖いのですが、言うだけ言わせてもらいたい。

 

 

選ばれたのは、かつては美しい娼婦だったけれど、今は容色衰え皆から蔑まれていたグリザベラという猫。


グリザベラが嬉しそうに天に昇っていった後、グリザベラ以外のみんなで歌い踊って幕となる。

 


めでたしめでたし感が強いけど、
いやいやいやいやちょっと待ってくださいと言いたい。

 


蔑まれていた立場から、羨まれる立場になったとしても、
仲間に入れてもらえないことに変わりはない。

 

生まれ変わらなければならないのか。

グリザベラのまま、幸せな晩年を過ごすことはできないのか。

 


本当の救済は、仲間に入れてあげることだと思う。

 

 

また、過去を悔い改めればやり直せるという希望があるとされていたりするけど、そもそも娼婦であったことを悔い改める必要はないと思うし、もし娼婦を悪いとするならば、需要のないところに供給は生まれないのだから、買った人が反省すべきことだと思う。

 


すでに大昔から指摘されていることだけど、娼婦として扱うことも差別だけれど、聖女として扱うこともまた差別なのだ。

 


願いはただ1つ、対等に扱ってくださいということ。

 


この問題は根が深く、LGBTに関してもありがちで、
LGBTを自分のアクセサリーのように見る人がいる。

 
正直に言うと、私にもその気持ちはわかる。
自分の人脈が広いことが自慢というか。


一方で、私自身が自分のセクシュアリティが消費されていると感じた経験もある。

 

 

下にも上にも見られたくない。

 

ただ対等に。

それが願いです。

 

 

 

「エクレクティックスタイル」~ 好きなものに囲まれた生活 ~

 

 

「ミニマリスト」・「シンプルライフ」・「断捨離」などの人気が衰える様子がない。

 

別に衰えてほしいわけではないのだけれど。

 


私は、衣食住に関することにけっこう興味があって、世が世なら(今ほど情報が多くなく、自分の人生に選択肢というものがあるなんて思いもよらず、自分の人生に疑問を持つきっかけに出会うこともないような・・・)専業主婦として幸せに過ごせたのではないかと思うほどなので、インテリアのことにも非常に興味がある。


これまで、雑誌やネットで参考になりそうなインテリアを探してきたけれど、どうにもこうにもシンプル系が主流派らしく、気に入ったものが見つからなかった。

 

シンプル系が趣味じゃないからといって、「ブリティッシュトラッドスタイル」や「エレガントスタイル」などは別世界すぎるし、「フィフティーズスタイル」はポップすぎるといった感じで、これだというものが見つからなかった。


さっぱりすぎても重厚すぎても困り、

クラシック過ぎてもポップ過ぎても困る。

 

 

これまでは、海外ドラマなどのインテリアを理想としてきた。

一見ゴチャゴチャしているけれど、よーく見てみると、1つ1つのものがみんな素敵なのだ。

 

 

そんな中、数か月ほど前に出会った『LiLy ― 日々のカケラ ― 』(石田ゆり子著)に、もすごく心惹かれた。

 

書店でパラパラと立ち読みをして、石田ゆり子の生活に興味があるわけではなかったので一旦は買わずに帰ったものの、なぜかどうしても欲しいと思って買ってしまった。

 

1800円(税別)なので、それなりの値段はすると思うのだけれど、十分元が取れたと思えるだけの価値が私にはあった。

 

 

まるで恋をするように、買い物をしてきました。

最近話題の、ミニマリストにはわたしは絶対になれない。

 

(石田ゆり子『LiLy ― 日々のカケラ ― 』文藝春秋 2018年 20・23頁より引用 Amazon CAPTCHA

 

 

という石田ゆり子の部屋には、たくさんの雑貨(と呼んでいいのかわからないけれど)、本、食器、椅子があって、写真に写っているそれらを1つ1つ見ていると幸せな気持ちになった。

 

私の趣味と合うかといえば、半分以上合わない。

 

不思議なことにそれでもワクワクする。

 


これは一体どういうことなのだろうと思っているときに出会ったのが、
「エクレクティックスタイル」

 

折衷スタイルとか、ごちゃまぜスタイルとか、そういう意味らしい。

 


このワードで検索すると、気に入ったインテリアに出会う確率が格段に高くなった。
(さっき、「断捨離」を検索しようとしたら、自分の求めるものが見つからなさすぎて思いつく限り打ち込んでいたときのワード「断捨離 物欲があった方が楽しい」が表示されて笑った。)

 

絵の趣味が合わなくても、色の趣味が合わなくても、見ているだけで楽しい気持ちにになる。

 

1点1点のものたちがみな愛されて、そこにいる。


まさに石田ゆり子の言う通り、「恋をするように」出会って迎え入れられたものたちばかり。

 


人の好き嫌いなんて千差万別だから、「エクレクティックスタイル」といえばコレ!みたいなものはない。


このスタイルを突き詰めていくと、多くの人から良い評価をもらうことは難しいのではないかと思う。


「素敵な部屋ですね」と言ってもらいたいという欲は、我慢しなければならないかもしれない。

 


これまで一応は他人の目も意識してインテリアを工夫してきた私の部屋について、彼女にどう思うか何度も聞いたことがあるのだけど、いつも「うーーーん、独特」と言われてしまう・・・。


もしかするとすでに「エクレクティックスタイル」を実践していたのかもしれない。

とても趣味が良いとは言えないけれど。

 

 

壁の一面に貼られた、たくさんのポストカード。
主に文鳥の絵のポストカード(あとは、ビアズリーっぽい蕗谷虹児の「睡蓮の夢」やクリムトの「接吻」の猫バージョンなどなど)

 

猫足の横型のピアノ椅子。

 

ダマスク柄の収納スツール。

 

木製のシンプルな折り畳みデスク。

 

楕円形の炬燵に、光沢のあるブラウンの炬燵布団。

 

アイアンのダブルベッドに、バーガンディー色のシーツ&カバー。

 

白くて大きくて乙女チックな鳥かご2台。

 

幸楽窯(有田焼)のオシドリの珍味入れ。

 

ガチャガチャの緑の鳥(ふわふわ)、黄色い雀(かたい)、ハトカー、ハトロールカー、とりまんじゅう(桜文鳥・白文鳥)。

 

文鳥だるま。

 


これとこれは同じグループに入れられるけどこれはテイストが違う、などと分類しようとすると収拾がつかないけれど、どれも気に入っているので、私の目から見ると違和感なく収まっている。


それで十分なのかもしれないと思う。

好きなものに囲まれて。

 

これさえ気をつければ一気に解決と魔法のようにはいかないし、地道な感じが受けが悪そうだけれど、自分の感覚に問いかけつづけて、その都度工夫していく姿勢は、インテリアに限らず、役に立つことがあるのではないかなと期待もしている。

 

「エクレクティックスタイル」、楽しいですよ。