「私」は、ただ「反応」しているだけ。

アラフォー独身女子(彼女はいます)。「人生これでいいのか?」と思いながらも、「毎日楽しく暮らす」のが1番の望み。

「同性婚」のその先に~まだ見ぬ未来に思いを馳せる~

 

 

 同性婚訴訟の件を知ったとき、まっさきに思ったことが、「私、何もしていなくて申し訳ない!!」ということだった。

 

世田谷区議会議員の上川あやさんは、わりと行動しない人に厳しいイメージなのだけど、そういう影響なのかなんなのか、私には政治に関わることをしていないことに罪悪感がある。

 

もちろん選挙には必ず行くし、署名くらいはするけれど。


過去には、市役所へアドボカシーに行ったり、議員さんや教育委員の方に会ったりしたこともあるけれど、ジワジワと身バレの恐怖が湧いてきたのと、テンションが保てなくなったのとで、今は本当にまったりと活動の末端中の末端に属している。

 

他人から行動しなきゃと言われたら怒るくらいの気の強さはあるけれど、LGBTのことに限らず、政治的なことに関わっていないのって、社会人として何か欠けていることだと思うので、自分の問題かどうかに関わらず何かはしないとと思う一方で、当事者だと難しいよねやっぱりね・・・と思ってしまう。

 

さらに、活動を本気でやるって、人生の中の相当な割合を占めちゃうことだけど、私の幸せの内訳って、自分のセクシュアリティが公に認められて、パートナーがいることをオープンにできるってことだけで8割幸せってわけでもないから、ちょっと割に合わない・・・とも思ってしまって・・・・・・。

 


とはいえ、今はあまりにも貢献できていないと思うので、もう少しは積極的に活動せねばと思っていた今日この頃に同性婚訴訟のニュース。

 

だからこそ、「申し訳ない!!」が1番の感想だったわけだけれど、訴訟された方の内の1人のコメントがやさしくて沁みました。

 

 

クローズドのまま訴訟を見守る当事者に向けて「今は無理に出なくていいよ、と伝えたい」と語る。
「自分がカミングアウトしたいと思うまでは、急がなくていい。それまでは私たち『出られる人』が頑張ります。だから、それまではそっと心の中で応援してくれたら、と伝えたいです」

 

(『「隣にいるはずのパートナーが、ここにはいない」彼が匿名で裁判を起こす理由』より引用 https://www.buzzfeed.com/jp/saoriibuki/marriage-for-all03

 

 

ありがとうありがとう。本当にありがとう。
という気持ち。

 

 

でも、

 

「いつか同性婚ができたらいいね、と何十年も思っていてもしょうがないんだなと思いました」


(『「いつか誰かが」では、人生が終わってしまう。東京・世田谷区で同性カップルが婚姻届を一斉提出』より引用https://www.huffingtonpost.jp/2019/02/09/setagaya-samesex-merriage-paper_a_23665379/

 

 

私が最初に見たキャッチコピーはこっち。

 
同性婚に限らず自分の理想の社会を作るには、政治を変えるのが最も近道。
やるしかないのは確か。

 

 


実は・・・、同性婚実現は簡単な道のりではないだろうけれど、遅かれ早かれ実現するのではないかと思っていて(もちろん他人任せにはしたくないのは大前提として)。


その理由は↓

 

遥洋子:ベルリンの壁は急に崩れましたよね。朝鮮半島の分断も突然、和解へと向かいました。どれもこれもいずれは解決しなきゃ、するだろう、ただし、遠い未来にと思われていた問題ですよね/なら、なら、男女平等はどうです?突然ベルリンの壁が壊れたように、あれほど遠いと思っていた男女平等が、突然、現実となって訪れる可能性はありますか?

 

上野千鶴子:そこに、問題がある、という共通認識があればね。フェミニズムに関してはまだそこまでいっていない

 

(上野千鶴子と遥洋子の対談より引用)

 

 

同性婚については、皆に「問題」として捉えられていると思う。

 

 

私の理想としては、まずは「同性婚」が認められて平等になったところで、結婚制度自体を問い直したい。

 

人生100年時代、今の子どもたちは、かなりの確率で100歳越えするらしい。

 

どう考えても、死が2人を別つまでというのは厳しすぎるし、例えば、25歳の分別で選んだ相手とその後75年共に生きるなんて正気じゃない気がするのだけど、どうなのか。

 

 

私の理想は、

誰でも、1人でも生きていけて。
でも、繋がりたいと思ったら、血縁・恋愛に縛られずに、家族になることができて。
もちろん、性別による差別がなくて。
一生、恋愛しなくても変人扱いされなくて。
その他、あらゆる差別がなくて。
もっと貧富の差がなくなって(世界規模で)。
私も他人も、みんな幸せな、
そんな世界。


なんか、どこから手を付けたらよいのやらと思うくらいTHE理想で、共通認識レベルから難しそうだけど、

 

 

奇跡は奇跡的に訪れはしない 

 

(金大中の言葉より引用)

 

 

小さなことからでも、まず行動を。
がんばります。

 

 

「能動的」に読みたい。

 

 

月に1度は宝塚ライブビューイングへ行くサイクルになっているけれど、来月は『霧深きエルベのほとり』の予定。

 

それを潤色・演出するウエクミ先生が、作品について京都新聞の夕刊にコラムを書いていた。

(Twitterに上がっていたものを読んだので、日付はわからず。)

 

 

実際演出してみて学んだことの中の一つ。それは、いつもの自分は台詞を短く書きすぎる、ということだ。菊田先生の真骨頂は台詞の上手さで、ありふれた単語ばかりを一見無駄に繰り返したり重ねたりしている長台詞が、たまらない名台詞に聞こえたりする。私からすると、「俺は・・・俺はよう」でなくて「俺は」でいいと思ってしまうが、役者がその余計な言葉を声にしてゆく、揺蕩う時間が、役者の心の整理にぴったりと合って、必要な感情はコレだよと優しく役者を導いてくれる。

 

(上田久美子「行きつ戻りつ、台詞は揺蕩う」京都新聞夕刊より引用)

 

 


これを読んで、自分は「俺は・・・俺はよう」派だ!と思った。


田中美津が、浄瑠璃だったか義太夫だったかについて、必要性があるとは思えない「ああ」とか「ええ」は、きっと歌い手さんが気持ちいいという理由だけであるのだろうと言っていたのと同じだなと思った。

 

 

中島梓が、一字たりとも気の向かない、実感をともなわない文章を書き飛ばしたらおしまいだと思うと言っていたのも同じ部類な気がする。

 

これまでこのブログの他には、自分の文章を発表する機会なんてmixiくらいだったのに、私はなぜかこの2つの言葉を折に触れて思い出してきた。
文章のことに限らず、そういうちょっとしたことを大切にしたいと思って、そういうことを大切にしなければ感受性が衰えるような気がして。


私の彼女は、細かい言葉のニュアンスなんか気にしない人で、つきあい始めた頃は、私が話したことを他の人に伝えるときに、私が選んだのではない言葉に勝手に換えられるのが気になって、しょっちゅうそうじゃない!と思っていた。

でもそのおかげで、私の選んだ言葉が、私の感覚どおりに、私の意図したとおりに伝わる訳ではないということもよくわかったので、気楽に言葉を選べるようにもなったけれど。

 


「俺は・・・俺はよう」派だ!と自覚したら、自分が読みたい文章像がわかった気がした。

 

明確に情報を求めているとき以外では、書き手の個性を制限して誰にでも読みやすく工夫された文章とか、内容を要約してくれた小見出しとか、そういうものは私にとってはむしろ少々邪魔なものなのかなと思った。

書き手の個性が感じられる、情緒がある、ちゃんとその人の中から出てきた言葉だと思える、そういう文章を求めているんだと意識することができた。

 


あと、私は文章を読むときに頭の中で音にして読んでいるのだけれど、最近そういう読み方ではなく、視覚的に読んでいる人もいるのだということを知って驚いている。

そういう読み方は、速読など通常モードではないものだと思っていた。

 

ネットで日々大量の情報に触れる昨今は、そういう読み方の人が多くて、それはそれで問題もあるらしいのだけど、そもそも私にはそういう読み方ができない。

 

だからこそ「俺は・・・俺はよう」派なのかもしれないけど、そんな私でも、目次や見出しなんかがあると、ざ~~~~~っとスクロールして、斜め読みができてしまう。

とてもわかりやすいし、わかったような気にもなるけれど、読んだという感覚は薄い。

 

出版されているエッセイなんかだと、そういう細かすぎる見出しはなくて、読者がそれぞれ自分なりの小見出しやキーワードを読み取ったり、または読み取らずに丸ごと味わったりするのかなと思う。

 

そういえば、『一〇三歳になってわかったこと~人生は一人でも面白い~』(篠田桃紅著・幻冬舎)は、短いエッセイが集めらているのだけど、なんとその短いエッセイ1つ1つに要約がついているのだ。それがレビューですごく不評だったので、そんなに批判しなくてもと思いつつ読んでみたら、ほんと~に邪魔でしょうがなくて、手で隠しながら読んでいるくらい。

 

読書やその他の鑑賞って、結局は自分と対話することが面白いというところがあるのではないだろうか。自分がどこに反応して、どんなところが心に残るのかっていうのがやはり醍醐味なのではないのかと思う。

 

田中美津の言葉は、ノートに書き留めてあるかと思いきや探しても見当たらず、私の頭の中で繰り返し思い出されていたようで、読んだ当初はそれほど心に響かなかったのかなと思うと感慨深い。

 

ウエクミ先生の夕刊には「行きつ戻りつ、台詞は揺蕩う」というタイトルがつけられていたけれど、さらに細かく「かねてより心惹かれていた脚本」、「実際の演出で学んだこと」、「95分の中に詰め込むスキル」、「生理に見合う時間が要る」などの小見出しがあったら、私が「俺は・・・俺はよう」というキーワードにこれほど感銘を受けたかどうかは疑問だ。

 

受動的に読めてしまうのはとっても楽なのだけど、楽しみは減ってしまうなと思う。

自分なりのキーワードや見出しを見つけるのが楽しいのだろうし、特に何を読み取るということもなく、ただしばらくその文章の中に入るというのも好きなのだろう。


世の中の流れは、今後もますます発信する側が増えて、大量のコンテンツの中から選ばれるために読みやすいものが増えていくのだろうけれど、そしてそれはとってもありがたいのだけれど、私は昔ながらの(?)エッセイを求めていたのだなと思った次第。

 
とりあえずは、まだ完読していない、少年アヤ著『ぼくは本当にいるのさ』、片桐はいり著『もぎりよ今夜も有難う』・『グアテマラの弟』、石田ゆり子著『C'est Joli セ・ジョリ ここちいい毎日』、千葉真知子著『食べるクラシック』を読もう。
けっこうあるなぁ・・・。楽しみ。

 

 

 

「宝塚」によって向上心が芽生える。

 

 

思いのほか「宝塚」が生活に馴染んでいる。

 

とりあえずお試しのつもりで入ったスカステは、観たい番組がひと月30くらいあるので、どうしたって1日1回は観る計算になるけれど、スカステ専用のスケジュール帳に気になる番組を書き込んで、それを週に1度まとめて録画予約して、そこから保存したいものをブルーレイに落として、という作業のルーティンが決まってしまえば、なんだか日常に溶け込んで自然な流れ。

 

そして最近、毎日放送される「タカラヅカニュース」は、やはり毎日観た方がいいという結論になり、それも録画するようになった。

 


「ヅカファン」というものを他人事として遠くから眺めていた時には、スカステに入るなんて相当の人だと思っていたけれど、こんなにも穏やかに生活の一部になるとは、と不思議な感じがしている。

 


ライブビューは、昨年11月に、こんな機会もそうないだろうからと、月組『エリザベート』に行ってみたのが最初で、12月には宙組、1月には『アンナ・カレーニナ』を観に行った。
2月には宙組博多座公演、3月には星組の予定なので、ライブビューはなんだかんだで月1回観に行く感じ。

 


激しく宝塚を愛する人も沢山いるのだろうけれど、私はとっても穏やかに楽しんでいて、「ハレ」のイメージが強い宝塚だけれど、宝塚が「ケ」に馴染んでいて不思議だなぁと思ったりしている。


水中で暮らすなんて不可能と思っていたのに、水中に入ってみたら呼吸ができて普通に暮らしてますみたいな、なんかそんな感じ。

 


スカステを見はじめて、わりとすぐに感じたことが、毎日宝塚を観ることは私にとって良い影響を与えそうだということだった。


私は年に1回くらいピアノの発表会に出るのだけれど、これまで本番が近くなると、なぜかお花様(花總まり)のディナーショー(実際は和央ようかのだけど)やショーが観たくなって、それを観ると、本番が怖いという気持ちが、舞台が楽しみという気持ちに変わるので、ここ数年は本番近くになるとお花様に頼るというのが定番になっていた。

 

それが、似たようなものを毎日観るのが普通になって、常日頃からピアノへのテンションを上げてくれるし、ピアノ伴奏の練習相手として歌うときなんかも、これまでよりも気合が入って楽しい。
(そして、良いのか悪いのかはわからないけど、技術が伴わなくても真摯に心を込めて歌おうという姿勢で臨める・・・。失礼を承知で言わせていただくと、クラシックのプロの演奏は、テンションを存分に上げてくれるけれど、あまりにも別世界レベルのテクニックなので、圧倒されすぎてしまって、単純に自分もやりたいとは無邪気に思えなかったりする。しかし、その一方で、宝塚ばかりを鑑賞していると、無性にテクニックのあるミュージカルやクラシック音楽を鑑賞したくなるのもまた事実だったりもする・・・。)

 


そして、ファッションなども頑張りたいと自然に思えてくるようになった。
これまでは、髪はその日のその日の調子で適当だったけれど、癖くらいはちゃんととってブロウして、というのをするようになった(これまでしていなかったことが問題なのだが)。

服装も、華やかなものを選びたいと思うようになった。


服装はもちろんのこと、髪の印象はとても大事だよということは、もちろん知っていて、何度も知識として触れる機会はあったけれど、なかなか実行に移すというところまで至らなかった。

 

 腹の底からわかるということは、それを実行に移すということだと思うと、さくらももこが書いていた。

 

上野千鶴子は、言ってることじゃなくて、やってることで判断すると言っていた。

 

 

行動するようになってきた私は、ようやく本当の意味でわかってきたのだろう。

 

 

タカラジェンヌは、基本的にとても不自然で、その美しさが努力の基に成り立っているのがよくわかる。

 

一般的には、どんなに美しくあるように計算され力を注がれていたとしても、自然な雰囲気をまとっているというか、そういう風に見えるようにはある程度なっているというか。

 

タカラジェンヌが、お互いの良いところを褒め合うときに、外見のことにもすごく触れることに、はじめは驚いた。

 

目が大きいとか、鼻の形が良いとか、はっきり言う。
自分でも、ここのパーツが気に入っているとかちゃんと答える。

 

自分は顔が派手だから化粧は薄めにとか、目が小さいから大きく描くようにするとか、

しっかり自分という素材を自覚して、そこを活かしたり補ったり工夫をする。

 

外見についてアレコレ言うことを躊躇しない。

良いとか悪いとかじゃなくて、素材として受け入れて、努力する。


私にとっては、これまであまり触れたことのない感じだった。


できれば他人から綺麗と思われたいという欲はあっても、どこか努力しきれない気持ちがあったけれど、自然とやりたくなって、とりあえず毎日髪も気を遣い(あくまで自分比だけど)、服装も華やかなものを選ぶようになった。

 

ずっと見ないまま溜まっていっていた自分の演奏動画も見てみた。

主観と客観はやはり違っていて、しみじみ見て良かったと思う。

改善したいところも明確になったし、自信がついた部分もある。

 

 

『ホンマでっか!TV』で植木先生が、ミラーニューロンというものがあり、「好きな人からしか学べない」というようなことを言っていた。
(その一方で、嫌いな人でも一緒にいると似てきてしまうという恐ろしいことも言っていたけど・・・)


植木先生のおっしゃっていたことは、本当だなと実感している。

 


今のところ、金銭面以外では(十二分に元はとっていると日々思っているけど)、楽しいし、向上心も芽生えるし、何よりときめきがあるし、良いことづくめの宝塚。


できれば、長いお付き合いになればいいなと期待しております。

 

 

 

美弥るりか様、退団なさるのですね・・・。

 

 

仕事終わりにポツポツとブログを書いていたときに、美弥るりか様の退団を知ってしまった。

もう続きを書けるテンションじゃないよね・・・。

 

『BADDY』がきっかけで美弥るりを知り、『エリザベート』で美弥るり演じるフランツを見てはじめてフランツに同情心が生まれ、美弥るり特集全6回を観るためにスカステに入会し。

美弥るりがいなかったら、今こんなに宝塚漬けの毎日を送っていたかどうかわからない。

 

とはいえ、最初は月組から見はじめたものの、今はすっかり宙組にハマり、1番好きな男役は、月城かなと→美弥るり→キキちゃん(芹香斗亜)→愛ちゃん(愛月ひかる)へと変わっている。

他には、ずんちゃん(桜木みなと)と和希そらくんと、もちろん真風さんと、紅さんと、みたいな感じで気になる人がたくさんいるという状態・・・。

今後もずっと揺ぎなく好きだろうなと思っているのは、ウエクミ先生と星風まどかちゃんだったりもする。

 

兎にも角にも、宝塚大好き状態なのだけど、今回の人事(?)には気持ちが沈んでしまいますね。どうしても。

 

大昔に読んだ宝塚本には、トップさんは退団が見えているからファンにとっては嬉しい一方で辛い気持ちにもなるけれど、2番手さんはこれからトップになるのがわかっているし最も心穏やかにいられる良い時期だなんて書かれていたけれど、今は本当にどうなるかわからないから基本ずっと心配なのですね。

 

落下傘トップの可能性もあるとか噂されていたけれど、本当に宝塚ってよくわからない。

 

トップの条件も謎。

美弥るりは、ビジュアルも華があるし、人気もあるようだし、芝居もできて、歌えて、ダンスのことはよくわからないけど恰好良いと思う。

 


音楽の授業ではじめて『ラ・ボエーム』を観たときに、ミミ役の人が、まだまだ十分に栄養を蓄えていて死にそうもない人で、すごく違和感があったけれど、その後、恰幅のいい蝶々夫人とかも観たりして、オペラって歌が歌えてればそれでいいんだな(ってそれが難しいのだけど)と納得して、今ではもう何とも思わない。

 

バレエだったら、まず容姿で残酷なくらい選別される。
日本ではスタートラインにも立てないなんてことはないと思うけど、突き詰めると避けられない要素なことは確かだと思う。
ギエムと親交が深いという先生に、ギエムが、日本で一生懸命努力しているバレリーナの中にバレリーナに向かないと思う体形の人がいるけれど、可哀そうでそんなこと伝えられないと言っていたと聞いたことがある。
バレエの世界にも明確な基準がある。

 


宝塚って本当によくわからない。

どの要素をとっても、これを極めればトップになれるというものがない。


先日、ライブビューで観た『アンナ・カレーニナ』もすごく良かったのにな。

終演後の挨拶も、組長のるうさんとのやり取りも、当たり前かもしれないけど悲壮感なんて全くなくて明るくて、これは退団の可能性はないっぽいっていうツイートもけっこう見たのにな。

 

 

昨日今日知ったような私が言えることなんてほんと何もないけれど、やり切った感はあるのかなと思う。

 

タカラジェンヌ=努力っていうくらいに、皆さんものすごく頑張っていて、宝塚を観ていると、私ももうちょっと頑張れるんじゃない?っていうか頑張るべきなんじゃない?という気持ちになることがあるけど、一般的には、やり切った、やれることは全てやったと思えたことがある人って少ないのではないかなと思っているのだけど(私が努力しなさすぎなのかもしれませんが・・・)。

 

吉田都が英国ロイヤルバレエ団を辞めるときに、後悔していることはない、その時々でできることは全てやって、常にこれ以上はできないってくらいやってきたから、というようなことを言っていて。
もうこれまでのようなテンションで臨めないからという理由で退団を決めたとのことだったけど、もうこれ以上は無理というところまで努力できる人って本当に凄いと思った。

 

一方、自分を振り返った時に、これ以上は無理って思ったことないなって(汗)。
もう嫌とかはあるけれど、無理って思ったことはないなって。


たまに、たいした努力をしていないのに、そんなに簡単に無理って思う人もいるんだと驚くことがあるけれど。

(やれることがまだまだたくさんあるのに、「もうこれまでか・・・」と思ったとまで言った人もいて、話を聞いたときには不謹慎にも爆笑してしまったけれど、本人も笑ってくれたので大丈夫なはず・・・)


これ以上は無理と思えるということは、これ以上ない努力をしたということで、誰もが味わえるものではないのだと思う。

 

 

まあ、美弥るりがこれ以上無理と思ったかどうかは、全くわからないわけではあるけれど・・・。

 

宝塚ってなんなんだろーーーなーーーーーとは思いつつも、美弥るりか様を清々しく見送りたいと思います。

 

 

インテリア選びに苦しむ。

 

 

春に向けて、仕事場を改装しようとしている。

 

今の部屋より3倍くらいの広さの部屋へと移り、そこをリフォームする。

今の部屋は作りつけの書棚があったり、カウンター(?)があったりして狭くても使い勝手よくなんとかやれていたのだけど、新しい部屋は収納がいっさいなくて、テレビ台や本棚を買わなければならない。

決めること、選ぶことがたくさんありすぎて、連日、50分の1の図面に家具の大きさを合わせて切った紙をあちらへこちらへと置いてイメージしてみたり、ネットで良い商品がないか検索しまくったり、インテリア本を読んだり、ひたすら頭の中でイメージしたりして。
疲労困憊している。

 


私はイメージする力が乏しい。
空間認知能力も低い。


余談だけど、小さい頃に、ねだったわけではないのに『はてしない物語』を買ってもらって、その豪華な装丁(物語の中で登場する本と同じ装丁になっている)に途中でやめるわけにはいかないと、なんとか読みきったけれど、私は頭の中で描写されていることをちゃんとイメージしなかったので、全くおもしろさを感じることができなかった。
完全に私に非がある。
主人公が別世界に行っているページは赤く、現実の屋根裏部屋だったかに戻ってきているページは緑で印刷されていて、私はわずかしかない緑のページがくるのを待ち遠しく思いながら読んでいた。おなかが空いて軽食なんかを食べたりしているシーンは、すごくワクワクして好きだった。

 

頭の中でイメージするのが苦手なのだと思う。本は好きなのだけど、壮大なイメージというものがあまりできないのかもしれない。


そんなわけで(?)、たいがいのものは実際に見みるまで、気に入るのか気に入らないのか判断がつかない。

そして厄介なことに、実際に見てみると好き嫌いははっきりしている方だし、しっくりくる置き場所みたいなことにもうるさい方だと思う。

 


なけなしの能力をありったけ使ってイメージするけれど、空間全体のバランスを考えて、1点1点物を選んでいくなんて難しすぎる。

だからこそ、インテリアコーディネーターという職業があるんだろうけど。


そういえば、今使っている部屋は3万円くらいで依頼したんだった。
母親の知り合いの人で、お互いに付き合いでという感じだったのだろう。

狭い部屋だし、選ぶものも限られていたし、出来上がりは可もなく不可もなく。
その後、別件で2回ほどお世話になったけれど、趣味の相性が微妙にズレることと、人としての相性があまり合わないことがよくわかったので、今回はもう依頼しようとは思わなかった。

 


頼れる人がいないし、予算も限られているし、センスもないし、アイディアもないという、ないない尽くし。

選ばなければならないものは、
床、壁紙(2種類)、引き戸、ロールスクリーン、バルーンシェード、ハトメカーテン、照明(3種類)テレビ台、本棚(2種類)。


インテリアのイメージは、
クラシック、アンティーク、ブラウン、緑、真鍮、みたいな感じ。


突飛なところは何もない、こうやって書いていると簡単な気さえしてくるけれど、やっぱり予算の問題なのでしょうかね・・・。
お金さえあれば、気に入るものにも出会いやすいのだろうけど如何せん・・・。


材質と価格はだいたい比例する。

コンソールが欲しかったけれど、それなりの値段がするし、祖母の足踏み式ミシン台で代用することにした。
それはそれで逆に良かったと思ってはいるけど。

昔の物って、合板などない時代でどうしたってちゃんと作るしかないから、一般庶民が使うものでもちゃんとした木で作られていて、古いものこそ捨てたら駄目だなと実感している。

 

ミシンは母方の祖母の物なのだけど、母親の時代になって買ったそれこそ嫁入り道具(ミシンもあった)なんかは、たいした価値がない。
母は、あのとき洋風の箪笥なんか買ってもらわずに、桐箪笥を買ってもらえば良かったとたまに言う。

 

父方の祖母は、せっかく昔の家具があったのに、嫁が来るからと買い替えてしまったので、良いものが残っていないけれど、昔のお茶箱は今実家で使っている。

母の両親が亡くなったあと、母の実家から家に入りきらないほどの家具や食器が送られてきて、そのときは処分してしまってもよかったのにと思ったけれど、とんでもない。 

一枚板で作られた食器棚なんて、もうわざわざ高いお金を払ってまで買うことはないだろう。

奥行きの浅い、たぶん釘を使わずに作られた本棚かコレクション棚みたいなのもあって、それもちゃっかり新しい部屋で使わせてもらう予定だったりする。

 


トータルバランスなんて考える力はとてもないけれど、数々の買い物や整理整頓をしてきた経験から、インテリアだけでなく、ファッションなどにおいても、1つ1つに力や魅力がないと駄目なんだということはわかっている。

けっこう何でもそうだと思う。仕事なんかも。

 

物同士の相性はもちろんあって、引き立て合うとか、これと一緒に置くと栄えるとかあるけれど、単体での魅力がないものには、やはり限界があるのは確か。

 

 

でも、予算やなんやと制約がかかると、それを忘れそうになってしまう。

だから、あーーーーーどうしたらいいのーーーーーーーーー、と今なっているわけだけれど・・・。

 

 

 「人は知らないものを望むことはできない」と誰かが言っていた。
上野千鶴子か小倉千加子、どちらかではないかと思うのだけど。

 

インテリアなんていう些末なことではなくて、社会運動的なことで心にとめておいた言葉だったのに。

 


今、ふわふわとしか思い描くことのできない理想の部屋のあれこれを考えるときに、この言葉が思い出されてならない・・・。

 

 

 

料理下手に、「白い食器」は手に余る。

 

 

私は料理が苦手。

理由は簡単。雑だから。

 


じゃあ、料理に興味がないかというと、そんなことは全くなくて、料理本もけっこう買って読んできたし(嫌々じゃなく)、こんな風に調理を楽しめたらとか、こんなテーブルコーディネイトだったらとか、そういう憧れみたいなものはずっとある。


おしゃれ・節約・オーガニック・伝統的・家庭的・お菓子・保存食、
節操なく一通り興味があったりしたのだけれど。
もう私には向いてないって認めてしまおうよ、という気持ちになっていて・・・。

 

一体それがいつ頃からそう思うようになったのかもわからなくなってしまったけれど。
これっていう方向性も特に決めないで、気が向いたときに頑張りたかったら頑張ればいいよね、そのときのテンションに任せて、と自然に受け入れるようにいつの間にかなっていた。

 

はっきり言って、私にとっては手抜き料理であっても、ものすごーーーーーく面倒くさい。

基本的に全ての工程が面倒くさい。
1つ1つの作業を楽しめない。
常に全ての作業を早く終わらせたいと思っている。
まな板の上が混雑しがち。


炒め物だって、材料を切って、炒めて、味付けして(これがプレッシャー。ここで失敗したら元も子もなくて、取り返しもつかなくて・・・)、食べ終わったら洗って片付けて。

大変です。
鍋だって、切って煮るだけとか言うけど、それがもう大変なのですよ・・・。

 


それなのに、『きのう何食べた?』を熟読して、付箋なんて貼っちゃったりしている。


理想と現実が折り合わない。

 


何年か、お惣菜や冷凍食品などに頼って生活していたけれど、ついに飽きてしまった。

 

スーパーやコンビニのお惣菜や冷凍食品を食べ飽きて、買い物に行っても、な~~~~~~~んにも食べたいものがなくて困っている。
(よく節約術として、お腹が空いているときには買い物に行かないようにって言うけれど、お腹がいっぱいのときに買い物に行くと、なんにもほしくなくてあまり買えなくって、帰ってきてお腹が空いてからものすごく困る。)


ここ数か月はまだマシになってきたけど、作らないわけにはいかない状況。
騙し騙しやっている。

 

 

料理を頑張りたくはないけれど、食事は楽しみたい。

そんな我儘な思いをなんとなく持っていたのだけれど、お正月用の食器を使っていて気づいた。


食器の力って偉大!


それはもうとっくに知っていた知識ではあったけれど、これまで私が読んできた本は、白い食器押しだったし、特に押してなくても当たり前のように料理本は白い食器が断然多くて、そして次に黒といった感じだった。透明とか。

 

そして私も、当然のように白い食器を買い集めた。

デザインや、厚みなどにはこだわって、気に入った物を買ってはきたけれど、ものすごーく好きかと問われると、まあちゃんと好きなわけだけれど・・・。

 

何が問題って、白い食器は、料理の魅力を邪魔しないこと、料理を引き立てることが最大の利点にも関わらず、そもそも私が魅力ある料理を作れないのだから。

 

変ではないけれど、良くもない。

 

鍋を取り分けるとき、鯖の味噌煮を食べるとき、私は白い食器よりも、おまけでもらった薄紅色の模様の和食器を選んでしまうなとは思っていた。

それの他には、色つき柄つきはほぼなく、かろうじてランチョンマットは、ジョルジュ・バルビエの絵をラミネート加工したもので、なんとか華を添えていた。

 


一昨年末、急に豆皿を中心としたお正月のテーブルコーディネイトをしたいと思った。


昨年のお正月は、豆皿は、鶴の形、富士山の形、浜千鳥の形、白菊の形などの他、文鳥の絵柄を松竹梅バージョンで揃えた。

他には、文鳥が2羽寄り添っている形のお皿を5枚も買ったり、九谷焼のひょうたん柄の姫皿も買った。

 

ただ黒豆とか、蒲鉾とか、ワサビや塩なんかを盛っているだけなのに、とっても気持ちが華やいだけど、そのときはお正月自体の楽しさと混ざってしまい、食器だけにそれほど注目できずにお正月だけの楽しみとして終わってしまった。

 

 

そして、昨年秋から楽しみにしていた今年のお正月。

 

今年は、徳利(のし柄)と盃(鶴の絵)、箔一のミニ2段重箱、九谷焼の馬上グラス(2)、有田焼の姫皿(鯛・瓢箪)、豆皿(膨雀・捻梅)、捻梅の銘々皿、鶴の形箸置きを買った。

 

1月はずっとお正月というのだと知って、今月はずっとお正月の食器を使っている。


スーパーで買ってきたパックに入ったちらし寿司を、箔一の重箱に移し替えてみたら、こんな良いちらし寿司は食べたことない!って雰囲気になった。

傍らには、可愛い鶴の形の箸置き。
箸は根元に文鳥の絵。

 


今年はお正月自体の魅力と混同することはなく、自分の作る(または作らなかったりして出来合の)華のない料理を、器の力でなんとかしてもらえばいいんだ!と気づいた。


私に白い食器を使いこなせる力はない。

 

白は万能というけれど、それは料理自体に魅力があるときに限られるという当たり前のことに、なんで今まで気づかなかったんだろう。


ファッションだと、シンプルなボトムスに白いシャツみたいなのが似合う人って、スタイルが良くて美形だからこそだよねなんていうのは定番の会話なのに。

(ちょっとしたパーティーにも着ていけますよって言うけど、ちょっとしたパーティーなんてねーよ、って感じで。)


服だったら、自分自身の素材とメイクで勝負、あとはシンプルでとか思いもしない。
服に頼る気満々。

 


プチトマトとか、パプリカとか、ルッコラとか、三つ葉とか、パセリとか、食べたくもないのに買いたくない。
(そういえば、白い食器押しの本で、白い食器は和食には合わないのではないかという意見をいただいたけれど、バランを敷けば大丈夫!と書いてあって、そのときはそうかなと思ったけど、バランなんて用意してらんないよね・・・)


そういうのを買いたい時って、まれに料理熱が高まったときか、ここぞっていうときだけ。

常には頑張れない。

 


土井善晴の『一汁一菜でよいという提案』に救われたっていう人が多いらしい。

田房永子なんて、読まなくてもこの本が存在しているだけで救われるなんて言っていた。

(ぜんぜん関係ないけど、私はブログ村で、ほとんど読まないけどタイトルを眺めたいために『77歳を生きている』というブログをフォローしている。)


レビューを読むと、土井先生も器は大切と言っているとかなんとか書いてあった。

 

 

料理に労力はかけられなくても、食事は楽しみたい。
頼れるものは何でも頼ればいい。


そんな画期的な発見に浮かれている中やってきたのが、幸楽窯の菊尽くしシリーズの深皿だ。

 

直径は22センチくらいで、ぐるっと一周5センチくらいの幅で、ピンク系の菊の花が描かれている。画風は和モダンって感じ。

白い食器ばかりの中で、お姫さま♪って雰囲気で、キッチンにあるだけで場が華やぐ。

 

ステーキを、付け合わせなしで盛ってみた(盛るっていうか入れるっていうか・・・)。

白いお皿だと、さみし~い感じになっちゃうだろうに、とっても美味しそうだし、高級そうでさえある。

冷凍のペスカトーレも輝いている。

マルちゃん焼きそばでさえ、ちょっと高級中華っぽくなってた。


素晴らしいな。ほんと。

 


白い食器は食器で、気に入って集めたものばかりなので(値段的には安いものが多くて100均も多数。元値は高くても閉店セールで100円だったり)、処分したいとは全く思わない。

 

それらは今後も大切にしつつ、これからは出会いがあれば、色や柄や絵のついた食器を揃えていきたいと思っている。

 

 

あ、最後に1つ付け加えたいことが。

食器に気を配ったり、洗い物が面倒なときは、紙皿とかパックのままとか、アルミホイルとか割り箸とかも全然ありな生活してますので・・・。

後片付けがない!っていう気持ちで食べるのは別の方向でまた格別。

 

そういえば、彼女とスーパー銭湯の帰りに外食したとき、2人とも帰ったらお風呂に入らなくてもいいのが嬉しすぎて、過去最高に美味しい食事だと言い合ったことがある。

 

 

美味しいと感じるかどうかって、料理の味以外にさまざまな要素が関わっているというのは誰もが知るところ。

お腹が空いているときに食べるのが1番とか。

 

人は本当に幸せなら食器なんて何だっていいと思えるものだという小倉千加子先生のお言葉を思い出さずにはいられない・・・。

 

 

ただでさとりとめのないブログなのに、話がどんどんとっ散らかっていってしまっていますが・・・。

 

料理ってわりと悩みの種だと思うので、頼れるところは何にでも頼って楽しく食事を、ということなのでした。おわり。

 

 

「意見」と「異見」~「田房永子の痴漢分析」などから考えてみた~

 

インターネットの普及によって、誰もが発信できる時代。
多くの人の意見を簡単に知ることができる。

 

しかしながら、その意見は既に知っているということの方が多い。

多くの人の「意見」というものは、既にある考えに一票を投じるという風なことだと思う。


それが悪いということではもちろんない。


何度繰り返しても足るということのない意見はたくさんあるし、

会話にしても、同じことを繰り返し話していても、とても楽しいということも不思議なことでもなんでもない。


無理矢理に人と違う意見を出そうとする必要などない。
逆張りほど意味のないものもないと思うし。
多数派だろうと少数派だろうとオリジナルだろうと、ちゃんと向き合って自分の意見を出せばいい。

自分の意見を表明することには意味がある。

 

 

ただ、世の中の意見のほとんどがどこかで聞いたようなものだからこそ、そうではない「異見」を生み出す人が貴重すぎて痺れる。

 

 

情報というものは、すでにあるものと違い、既存のものとの「距離」のなかに生まれます。これを「オリジナリティ」と呼びます。私は「いけんがありませんか」というときには、かならず「異見」と書くようにしています。異なる見解というわけです。ご「異見」というのは、その人のオリジナリティのことです。「異見」というのは、あなたと私はここが違うという距離のことだからです。
オリジナリティとは、現にあるものとその人との距離を指します。したがって、オリジナリティを獲得するためには、現になにがあるのかを知ることが大切です。これを別名、教養と言います。だから教養はないよりあったほうがよい。ただし、教養だけがあってもオリジナリティが生まれるとはかぎりません。


(上野千鶴子著『サヨナラ、学校化社会』より引用)

 

 

「教養だけがあってもオリジナリティが生まれるとはかぎりません。」

 

厳しいけれど、それは実感としてよくわかる。


同じものを見ているはずなのに、私には見えなかったことを教えてくれる人。

私も感じてはいたけれど言語化できなかったこと、またはしようともしていなかったことを言葉にして新たな視点を与えてくれる人。

 

自分の力では得ることができなかった視点。
その視点を得たことによって、私の見方が変わり世界が広がる。

感動してもしたりない。
ワクワクを通り越して、ゾクゾクして、それでいて熱い湯に浸かったときのように「あ゛~~~~~・・・」と声が漏れてしまうようなそんな感動。

 

 

いまだに、ナンシー関が生きていたら、これについて何て言っていただろうと思うけれど、亡くなってなお「異見」を聞きたい人がいたりする。


「異見」ってそれほどに貴重だ。

 

 

私の「異見」欲を満たしてくれる、常々絶賛大注目中の人、それが「田房永子」。

 

「毒親」についての漫画で知られていることが多いのかなと思うけれど、「男」の捉え方やフェミニズム系の話などもとても興味深い。興味深すぎる。

 

中でも、「膜」という概念の発見は秀逸で、大発見といっていいと思う。

 

 

彼らにとっては、自分が相手に加害を加えているというよりも、自分の世界、自分の半径1メートルを覆う膜のようなものの中に、女の子が入ってきた、という感覚なんだ。

 

(田房永子「どぶろっくと痴漢の関係」より引用https://www.lovepiececlub.com/lovecafe/mejirushi/2014/08/19/entry_005292.html

 


最新は↓

 

ワイ君を着替えさせる時、ズボンを脱がせ、おむつもとった。ソファにつかまり立ちしているワイ君にオムツをはかせようとすると、ワイ君が放尿した。私はその立ち小便を見て衝撃を受けた。

濡れない。男は足が濡れないのである。

女が全裸で立って放尿したら、太ももから膝下、足の裏までビショビショになる。だけどワイ君の尿は弧をえがいて本人の体から離れたところに落ちた。

全裸で尿をしても、何も変わらないワイ君の足の皮膚。床の尿を拭きながら、呆然とした。男達のあの「無関心」ぶりと「遠くに落ちる尿」が、私の中で完全にリンクして腑に落ちた。

男って、体の構造からそうできてるんだ。

 


(田房永子「私は男性を嫌悪などしていない! 後編」より引用)

 

 

 

ああ、世界が広がる・・・。

 

 


こんな素晴らしい「異見」がある一方で、

その「意見」って何度も聞いたことある上に、すでに論破されているにも関わらず、なんでそんなに偉そうに発表できたの?そして、なんでそんなに賛同されてるの?こんな意見を臆面もなく出す人と一緒の世界に生きているなんて耐えられないんですけど、と思う意見もある。


それは、ハラスメントや差別をされた側に問題の解決を求める意見。


痴漢にあったのは服装のせいだとか、そんな時間にそんな場所にいるのが悪いだとか、護身術を習えだとか。

それくらい穏便に対処できないととか、昔はおおらかでよかったとか。

仕事がからんでいればお前だって得をしたんだろもっとプライドを持って生きないととか。

腸煮えくり返る意見がいまだに見られる。

 


えっと・・・、この意見ってすでに「二次被害」という名前までつくほど瞬殺で論破されるやつじゃなかったでしたっけ?


将棋や囲碁の定跡(定石)みたいな感じで、もう散々やり取りされてきたアレですよね・・・。
それをさも妙案かのように言えるってすごいっていうかなんていうか馬鹿っていうか・・・。


まあ、お決まりの意見に一票って感じの人が多いのだけど、たまにいいこと言ったくらいの感じの人がいて驚かされることがある。

加害者を責めるのが普通なところを、一捻りして被害者にも責任があるとしたところにひと味違う感じがしてしまうのか?とか想像してみるも、その思考回路が全くわからない。


腸煮えくり返る思いもしつつ、いやもうこの議題については決着ついてますよね・・・・、と徒労感を覚える。

 


「オリジナリティを獲得するためには、現になにがあるのかを知ることが大切です。これを別名、教養と言います。だから教養はないよりあったほうがよい。」


学者じゃないのだから先行研究を調べろなんて言えないけれど、教養必要だね・・・とは思う。

 

「意見」にしろ「異見」にしろ、たくさんの人が発信するさまざまな「いけん」にどう対するか、自分はどういう「意見」を述べて、どういう「異見」を生み出すことができるのか。


ブログをはじめて、ようやっと2ヶ月。
この視点は、ブログをはじめる前より強く心にとめておきたい。